4月23日のメッセージ

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2023年4月23日「キリストと出会う②」

 

<聖書>

29 ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。・・・

 

35 その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、 36 イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊」と言った。 37 ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」 39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は第十時ごろであった。

40 ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。41 彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った」と言った。

 

 

<神の「コトバ」>

 現在放送しているNHK番組の「100分de名著」ヨハネ福音書1章の冒頭の部分1節:初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。)が語られ、ここで言う言葉とは、ただも文字の集まりではなく、あえて記すなら「コトバ」であり、人の心の奥底まで響き、人を活かすものだと、そして、キリストを指すのだと、説明されていました。

 神からの「コトバ」であるイエス様が最初に発声されたのが今日の言葉です。自分に近づいてきた後の12弟子、アンデレに対して、「あなたがたは何を求めているのですか?」(原語は、探す、という言葉ですので、探し求めているのですか?とも訳せます。)

 

<何を求めているのですか?>

 イエスは私達にも尋ねます。「あなたがたは何を求めているのですか?」

 私達は、キリストに何を求めているのでしょうか?満足、安心、良い人間になること、恐れや不安、孤独や怒りから自由になること、やがての天国、永遠の命?

 1つではなく、大小様々な理由があり、神を求めるのでしょう。自分が気づいていないだけで、意識できていないだけで、心の深いところで求めているものがあり、動かされていることもあるでしょう。

 

 アンデレは、洗礼者ヨハネの弟子だったのです。もちろん神の道を求めていました。(必ずしも、当時全員が信仰深かったわけではなく、宗教は飾りとなり、ローマ・ギリシャの文化、生活の楽しみ、夢中になっていた人も多かったのです。彼は、貧しさと苦しさ故に、神を真剣に求めたのかもしれません。)

 

 けれど、福音書から分かるのは、神の国での序列(順位)を競い互いに誇り合う弟子たちの姿であり、キリストをかつぎ上げてローマ帝国を倒しイスラエル王国を繁栄させてもらおうとする願望・欲求です。神への真剣さと、自分の願望とが、混じり合っているのが、弟子たちであり私達なのだと思います。

 

 実際に、最初はイエスについて来ても、自分に都合の良いことを言ってくれない、自分の希望通りに動いてくれない、と、離れていった人々が大勢いたのです。弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。『これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか』」・・・こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。」ヨハネの福音書6章60&66節

 

 そもそも、全てをご存知のはずのイエス様が、なぜこのように尋ねるのでしょうか?私には、この問い

は、あなたの心を見つめさい、あなたの動機を探りなさい、と聞こえます。私達にはいろいろな動機があります。真摯な心もあれば、自分勝手な願望もある。キリストはそのことを、いつも自分に問い、顧み、気付き続けてほしかったのだと感じます。

 

 聖書で、罪という言葉は、原語のギリシャ語では「的外れ」とか「的違い」といった意味の言葉です。日本では「鰯の頭も信心から」というように、求める私達の側の心に重点を置きますし、私達の感情や願いは、とても大切なことなのです。

 

 しかし、神が与えようと願うものよりも、自分の欲しいものばかりに目と心が向く時、神の語りかけが聞こえないくらいに自分の願いを大きく叫ぶ時、私達はどこかおかしくなってしまう。私、私の、私が、私のために、と私が大きく膨らみ、神が、隣人が、悲しむ人や必要を抱えた人が、かすんでしまう。離れていった多くの人々のように、「的外れ」になってしまうことを今までの人生で何度も経験しました。

 

 私達はいろいろと求めている。それが与えられることもたくさんあります。けれど同時に神が与えたいものがあるのです。

 先程のNHKの番組では、ただただ、自分の願いや、考えを神に向けことだけが祈りではない。それら「自分の声を静めて、神の声に照らされてみるのが本当の祈り。」と紹介されていました。

 

 洗礼者ヨハネはキリストを指して、「あなたの願いを叶える神の使い」とは言いませんでした。「世の罪を取り除く、神の子羊」と言ったのです。神である方がこの世界に来て、十字架にかかる、それほどまでにして与えたいものがあるのです。最初の問いは、3章16節「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」そして、20章31節「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」へと繋がります。 

 

<私達に、十字架に、とどまってくださる神様>

38 彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」 39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。

 

 アンデレは、イエスの泊まる場所を尋ね、イエスに招かれ、泊まっているところを知り、イエスと話しました。イエスとお近づきになる、イエスを知ることを求めたのです。以前、「神から祝福を求める以上に、祝福の源である方を求めなさい。」とある説教で聞きましたが、そのとおりだと思います。

 

 ヨハネの福音書では、1つ1つの言葉に象徴的な意味が込められて使われることが多いのですが、この「泊まる」とは、原語では「忍耐してとどまる」「我慢してそのまま残る」というニュアンスのある言葉です。

 

 アンデレは、完全ではなかったとしても、神がこの世界に、愛と忍耐を持って、関わってくださることを感じ取ったのです。その思いを受け止めたのです。

 神は、罪があり、拒むこの世界に留まってくださった。いえ、十字架にかけられ「神なら降りてみろ」と嘲られても、私達のために留まってくださった。

 

ヨハネの福音書15章に有名なぶどうの木と枝の例えがあります。

4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわた

しにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。

 

 この「とどまる」は、1章の「泊まる」と同じ言葉です。私達が頑張って、キリストを求めるのではないのです。キリストが、どれだけ、裏切られようが、拒まれようが、愛と決意を持って忍耐し、この世界に、十字架の上に留まってくださったのです。私達が我慢して神につながるのではないのです、神がはるか先に、わたしたちにとどまってくださり、決して見離さず、決して見捨てないのです。

 

 アンデレは、この方に出会って、変化が起きました。いままでは自分だけで神を求めていた。けれど、弟のところへ行き、私はキリストに出会ったというのです。ある意味で、自分にだけ目が向いていたのが、人へと祝福を流すようになるのです。 キリストとの出会いは、私達の心を、満たし、深め、そして、他者へと広げます。私たちを想い、忍耐し、苦しみの中にも、命をかけてわたしたちのそばに、留まってくださる方と出会ったのですから。

 

<今週の黙想>朝ごとに、沈黙の中で、あなたにとどまってくださる神様に、心をかたむける時間をもってみてください。

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