2月5日のメッセージ

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2023年2月5日「神さまの良い知らせ18〜教会は憐れみの満ちる場所〜」

 

<聖書 マタイの福音書18章>

 

1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは、天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」2 そこで、イエスは小さい子どもを呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、3 言われた。「まことに、あながたがに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、入れません。4 だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。5 また、だれでも、このような子どもひとりを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。

 

12 あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。13 そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。14 このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。

 

<教会ってどんな場所?>

 みなさんは、教会と聞いて、何をイメージしますか?イエス様が唯一教会という言葉を使っているのが、マタイの16章と、今日の18章です。教会とは何でしょうか?

 以前、面白いイラストを見ました。クリスマスの装飾やツリーが飾られた部屋で、こどものイエス様が、教会の建物のおもちゃを怪訝な顔で見ています。すると父親が(父なる神様が)「どうしたのイエス?誕生日プレゼントで教会がほしかったんじゃないの?」と尋ねます。するとイエス様が「でも、それ(教会)が箱(教会堂)から出てこないんだ。」と言うのです。

 

 つまり、教会とは建物のことでなく、中身であり、私達一人ひとり、そして共同体のことであるのです。(建物でも、宗教法人でも、牧師でも、長老会でもないのです!)そして、本当の教会とは、建物の中でだけ信仰を保つのでなく、外に出て生き生きと歩むのだというのです。

 

 私達は広く、安心して礼拝できる建物、教会堂がほしいのですが、ただ建物があっても意味がない。中身が、私達が、”教会”であることが大切なのです。ありがたいことに、おざく台の礼拝に参加してくださる方が、口を揃えて暖かい教会ですねと言ってくださるのは、私達がイエス様の教会として歩むことが少しだけ出来ている証かもしれません。

 

 イエス様は、このマタイ18章で教会について語っています。それは、誰が偉いと威張り合う場所でなく、立場の弱い者が大切にされる場所であり(1〜14節)、たとえ過ちがあったとしても教え合い祈り合う場所であり(15〜20節)、裁き合うのではなく赦し合う場所(21〜35節)です。(その逆がなんと多いことでしょう・・)

 

 その教会論のポイントとして、この子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」(4節)と言われる。当時の文化が意味する「こども」とは、知識も、力も、功績も、立場もない、小さな、不十分な存在を意味しました。)

 

 つまりは、知識がなく、力がなく、功績も立場もない、ただただ神の恵みにすがるものが、天の御国で一番偉いのです、とある。立派さや、博識さや、正しさ、有益さが大事なのでなく、神の恵みに頼りそれを受け止めることが、教会において何より大切なのです。

 立派でなくて、知識や理解が十分でなくて、現在や過去に失敗や傷があって、ただ神さまの哀れみにすがるしかない者、イエス様はそのようなこどものような私達を人々の真ん中に立たせ、神の国ではそのような者が一番偉いと言ってくださる。ただただ恵みに頼っているからです。

 

<神の憐れみの視点で生きる>

 教会は、この神の憐れみの視点ですべてを見るのです。ですから、マタイ18章はバラバラに読んではいけない。バラバラに読むと、21〜35節から、人を赦せない人は神の赦しを取り上げられる、と脅すようなメッセージになってしまいます。(では誰が天国に入れるでしょう?) 6〜9節は、威張り、人をつまずかせるものは、目をえぐられ、手足を切り落とされ、重い石をくくりつけられ、海に沈められる(イエス様はマフィアのようですね・・)となり、私達は全員海の底です。(しばしば説教者は、このように脅して、信徒を恐怖と不安で、支配しようとします。私がみなさんを、恵みから引き離し、恐れで支配しつまづかせるような説教をしたら、6節のように大きな石臼を首にかけられて、深い海に沈めてください。)

 

 教会はカルト宗教のように功績や献金が要求され、それを誇り合う場所ではないのです。神は、律法主義者のように、私達の至らなさや赦せない心を指摘し、私達を拒絶する神でもないのです。

 

むしろ、あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。」(12節)と言われる方です。

 私達の神は、1匹の羊を探す神です。神は羊飼いに例えられますが他の99匹を置いておいても、一匹を必死で探す神です。合理的でなく、理性的でもない。迷子の羊を探すように、私達を声をからして呼び、必死に探し求める方なのです。

 実際に自分の立場を捨て、人として生まれてくださった。自分の命を捨てて、十字架にかかってくださった。私達はこの神の愚かさに救われたのです。神の熱心により見つけられたのです。

 

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。」ピリピ2章6〜8節

 

 教会(エクレシア)とは、エク(外に)+カレオー(呼ぶ)で、呼び出された者たち、を意味します。私達はそれぞれ、神に探され、呼ばれ、見つけられた、一匹の迷った羊なのです。

そして、神が自分を見つけ、「迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。」(13節)とあるように、喜び踊ってくれている。神は私を必死で探してくださった。私は見つけられ、喜ばれている。その幸いを受けとめている、このことを何より大切になさってください。

 

<教会になる>

 神さまによれば、私達は人間の集まりでなく、教会です。実際の私達は、完璧ではありません。失敗もあり、醜さもあるでしょう。それでも、神さまは私達を指して、教会と呼ばれました。キリストの体と呼ばれました。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(18章20節)と約束してくださいました。

 ですから、名前だけでなく、名実共にキリストの教会へと変えられたいのです。完璧でなくても、粗削りでも、イエス様の憐れみの心が少しでも、かけらのようにでも、私達の間ににキラリと光ってほしいのです。神が一匹の羊、迷った私達のために、命をかけてくださったことを大切にしたいのです。教会とは、神に探された、神に呼ばれ見つけられ、神に喜ばれた一匹の羊たちの集まりです。

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