8月2日のメッセージ
2026年8月2日おざく台キリスト教会 「キリストの福音23」マルコの福音書9章
9:2 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。そして彼らの目の前で御姿が変わった。 9:3 その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。 9:4 また、エリヤが、モーセとともに現われ、彼らはイエスと語り合っていた。・・・ 9:7 そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。
9:14 さて、彼らが、弟子たちのところに帰って来て、・・・ 9:17 すると群衆のひとりが、イエスに答えて言った。「先生。おしの霊につかれた私の息子を、先生のところに連れてまいりました。 9:18 その霊が息子に取りつきますと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、霊を追い出してくださるようにお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。」9:19 イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」 9:20 そこで、人々はイエスのところにその子を連れて来た。その子がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った。
9:21 イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。 9:22 この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」 9:23 するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」9:24 するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」・・・
9:28 イエスが家にはいられると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」 9:29 すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」
<山上の変容>
9章の最初では、ラファエロの絵画でも有名な「山上の変容」の場面です。1.イエスの姿が変わり、2.モーセとエリヤという旧約を代表する2人の人物(証言者)が現れ、3.天から神の声が響きます。これらすべてが、イエスは神の遣わした救い主(メシア・キリスト)であることを表します。ペテロたちは驚きつつ山を下りました。
<悪魔の支配と神の支配>
下山すると、悪霊という問題に直面します。これを昔話やホラー、スピリチュアルで片付けないでください。これは私達の問題でもあります。悪霊につかれるとは、罪や悪の支配を意味します。一方で、神の国とは、言語では神の支配を意味し、神の願いが実現している領域を指します。罪や悪か、神か、どちらがその場を治めているか、どちらの心が実現しているかという対比があるのです。ですから、悪霊とはホラー映画のように取り憑かれずとも、悪魔や罪がが私達の心や頭や言葉、行動を支配しうるのです。悪魔が願うことが、私たちの家庭や職場や、人間関係や、毎日の歩みに起こっているのです。
逆に、聖書でよく出てくる、悪霊の追い出し、つまり、悪霊の支配からの解放は、神の国(支配)の広がり、神の願いの実現を意味するのです。その役目は弟子達に委ねられ、成功もありました(6:12)。しかし、今回は、弟子たちも、(その場にいた律法学者たちも)難しかったのです。
(補足:好ましくない・都合の悪い出来事、事故や病や災害まで全てを悪霊のせいにしたり、信仰的な方法により解決可能、と考えるのは、カルト的です。イエスに苦しみが多かったように、パウロに癒やされない病があったように、使徒たちが殉教したように、信仰深さと、苦しみとは、両立しうるのです。)
<イエスからの期待>
私達も神を悲しませるような問題を、内に・外に抱えています。祈りつつ自分で解決出来たこともありますが、今回の弟子たちのように、時に自分ではどうしようもないことに出会うわけです。17〜18節はそのまま私たちの言葉です。神さま、私達には出来ませんでした。罪や悪い思い、過去の傷から自由になれません。人間関係がどうしようもなく、冷え切ったり、途切れてしまいました。目の前の問題は私の手には負えません。心も身体も疲れ切って倒れそうです。
そこで私達は予想外の言葉に出会います。19節「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。」少し厳しすぎるようにも感じます。ただ、この文脈を見たいのです。これはもうキリストの生涯の終盤です。この箇所の前後では十字架の予告がされています。
これからはもう、なんでもイエス様任せではないのです。これからは弟子たちの番なのです。期待しない人に、何も任せていない人に、こんなこと言いません。言い変えるならば、弟子達を育てることに3年をかけ、大切な役割を任せ、期待しているから、このように言うのです。
私達の心に、生活に、環境にもまた、神の心が実現すること、神の国(支配)をもたらすキリストの歩みを引き継ぐことを、キリストは期待している。(「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記1:28:「文化命令」)
私達はキリストの期待の対象です。できない人に押し付ける方ではありません。それは決して不可能ではないから、イエスはこのように言うのです。無理だ、ではなく、神の願いに沿っていれば、神の助けによって必ずできるから、期待されているのです。
<キリストの確かさ>
その時に大切なのは、自分の確かさではなく、キリストの確かさに信頼することです。私達が考えがちな信仰とは、自分の確かさです。自分の思いの強さです。イワシの頭も信心からと言うように、信じる熱心さが強調されます。信仰の重点は、私たちの願いに、私達の確信の強さに、私達の側にあります。しかし、弟子たちも、律法学者もできなかったということは、力や知識は有益であっても、神の心の実現には、それらだけでは不十分だということ、それらに依存しすぎることこそが、不信仰だとも言えます。信仰とは、神の願いに、神の確かさに、重点があります。
23節では、イエスは父親に対して、めずらしく強い言葉で反応します。それは「もしお出来になるものなら」という言葉に対してでした。それは違うというのです。「信じる者には、どんなことでも出来るのです。」と返します。これは、思いが強ければ、願いがかなうという意味ではありません。それならばキリストへの信仰ではなく、自分への信仰です。
そうでなく、キリストへの信頼です。以前ある病人は言いました。「お心一つで、私はきよくしていただけます。」(マルコ1:40)キリストならお出来になる。キリストが望むなら、その通りになる。キリストは確かである。それが信仰です。
9:24 するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
父親は面白い反応をします。「信じます。不信仰な私をお助けください。」 息子の救いを求めていたのに、キリストと向き合う自分の姿勢に焦りを感じたのです。イエスが望んでくださるなら、それが信仰です。私達はそのことに安心し、眼の前に精一杯向き合うのです。
ある牧師は、「人事を尽くして天命を待つ」、という言葉を紹介し、キリスト教徒は、「天命に安んじて人事を尽くす」、という生き方だと教えてくれたのを思い出しました。
<キリストとの交わりの中で>
弟子たちは、秘訣をイエスに尋ねます。 9:29 すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」
祈ればなんとでもなる、念じればどんな願いも実現するという意味ではない。多くの写本は(読者の誤解を避けるためにでしょう)ここに「断食を」加えます。祈りも、断食も、どちらも熱心さでなく、神との交わりの深さを意味します。その中でこそ、キリストの信頼が深まっていく。キリストの奇跡のような即効性はなくても、神と話しつつ取り組む。私達も、神との交わりの中、取り組みたいと思うのです。
今週の黙想 あなたの毎日で神の支配を必要としている場所(心、状況、関係)をゆっくりと考えてください。祈りの中で神さまがどうなさりたいか、ゆっくりと聞いてみてください。

