8月3日のメッセージ

2025年8月3日おざく台キリスト教会「福音の再確認、めぐみの再発見」

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<マルコの福音書6章>

9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。10 そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。11 そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」12 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。13 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた14 ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

 

<良い知らせとしての福音>
キリスト教には、「福音」(英語では、エヴァンゲリオン、ゴスペル、グッドニュース)という、直訳すれば「良い知らせ」という意味の大切な言葉があり、マタイの福音書、◯◯福音教会、福音派、のように用いられます。(ただし福音派、という言葉は、報道番組などで、アメリカの原理主義教会を表す言葉として、大統領支持派、新イスラエル派として、排他的、差別的、非科学的、妄信的など悪いイメージとして、一般に浸透しています。)

 

かつて日本に海外から伝えられた“福音”は以下のような内容に限定される傾向がありました。「人はみな罪があり、神は人に怒り、罪人を裁き、地獄に送る。けれど、イエスが人の身代わりに十字架に着き、罪の罰を、神の怒りをその身に引き受けた。人は、キリストを信じ洗礼を受けるなら、滅びから救われ、天国へ行く。」

私達に怒り罰しようとする閻魔大王のような審判の神だけが提示され、聞く人を、脅し、不安にさせ、信じさせようとします。(そのような神を提示する教会は、恐怖と緊張とで人々を縛り、カルト的な傾向を帯びます。)

もちろん神やイエスが怒ったりする場面は出てきます。けれどそれは、パリサイ人、律法学者、ローマ帝国に代表される高慢な人間に対してであり、遊女や取税人にはそのような内容は出てこない。むしろ、正反対の対応で、罪人とされた人にはひたすらめぐみをもって寄り添いました。

神は、私達を造り、導き守る神、私達一人ひとりに計画を持ち、共に歩む神、罪人に寄り添い、命まで投げ出す神、私達の生き方を変え、人に仕え、人を祝福するものへと変えていく神です。私達は、神を、福音を、もっと大きく捉えたいのです。

 

イエス様の宣教の第一声は「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(15節)という言葉でした。イエス様はどんな意味で、用いたのでしょうか?

<イエスその身をもって表した福音>

イエス様は、その言葉を言う前にしたことがあるのです。それは9節のバプテスマ・洗礼です。イエス様は、人前に出る、活動を始める、その前に、洗礼をお受けになったのです。そして、神は、天から声を響かせます。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」(11節)そして、聖霊が下った(神が共にいた)のです。

神はイエスの何を喜んだのでしょうか?これは、マルコの1章です。この場面がイエスの発動場です。始まったばかりです。イエスはまだ何もしていないのです。

イエスは、一度も、説教をしていない。一つの奇跡も起こしていない。0です。一人の改心者もいない。一人の弟子も得ていない。社会的にも、宗教的にも、何を得てもいない、何を成し遂げてもいない、まったく何者でもないのです。

それなのに、神は言われたのです。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

◯◯をしたら、□□ができたら、△△になったら、◎◎をもてたら、神に喜ばれる、愛される、救われる、そう考えていませんか?違うのです。

まだ何も成し遂げず、何も手に入れていない、その時に、神はイエスを喜んだ。理由は一つだけあります、「あなたは、わたしの愛する子」だからです。だから何も持たず、何も成し遂げていない、何者でもないイエスを神は喜んだのです。(喜ぶは原語では、「尊く見る」、という言葉であり、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ43:4という有名な聖句を想起させます。)

そして、この言葉はイエスだけでなく、私達へも向けられています。だからこそ、イエスは、受ける必要のない洗礼を受けた、そして、唯一この箇所だけ、天からの言葉が誰にでも聞こえる形で示されたのです。

 

<「放蕩息子の帰郷」に表された福音〜めぐみの父なる神〜>

ルカの15章には、放蕩息子の帰郷、と呼ばれ、レンブラントも描いた、大切なお話があります。父親は神様、息子たちは人間(私達)とされますが、正確ではありません。これは、イエスが、見下された人を庇うために、した例え話です。弟息子は、見下された人、何の功績もない人、イエスが寄り添った人を意味しています。

それなのに、「ある人(神)に息子が二人あった。」と始まります。罪人が神に赦される話ではない、彼はもともと息子なのです。それが神の人間への見方です。父と子の関係こそが、神と人とにとっての自然なあり方なのです。

けれど、弟息子は父に背を向け、財産だけを譲り受け、父の元を離れます。聖書で罪とは「ハマルティア」、的外れや方向違いを意味します。父に背を向けた息子の姿こそが、その不自然な状態をさして、聖書は罪と言うのです。そして、父に背を向けたゆえに、罪の状態の結果として、遊女にうつつを抜かし、財産を無駄遣いして、すべてを失うのです。

ところが息子は思い出すのです。「父のところには・・・」、自分には父がいると「我に返って」気づくです。父ではなく、父のところにあるパン目当てです。 労働者となることで、食事にありつこうとしています。(私達の信仰も、最初はどこかズレている。それでいいのです。)それでも、彼はたちが上がって家に帰ったのです。父の方を向いたのです。

悔い改める(メタノイア)をは、方向転換を意味する言葉です。反省はほぼない、父の気持ちも考えない、食べ物目当ての息子、それでも彼は父の方を向いたのです。

 

すると、父は、遠くから彼を見つけます。イエスの提示した神は、裁こうと、罰しようと待っていたのではなく、受け入れようと、愛そうと待っていて、父の側から見つけ、父の側から走り寄ってきたのです。そして、食べ物のために交渉しようとする息子を無視し、一方的に一番良い服を着せ、指輪をはめ(息子・相続人であるという証)、靴をはかせ(召使でないという証)、大宴会を開いて言うのです。「食べて祝おうではないか。この息子は・・・」

父は、息子が父を忘れていても、息子が自分は雇い人だと考えていても、どんな状況でも、父は、彼を「息子」と見ているのです。

 

父は償いとして差し出される物や、深い反省や、生まれ変わった歩み、心からの涙によって、息子を受け入れたのではありません。どれだけ身を落とそうとも息子が息子であるから、こちらを向いてくれたから、ただそれだけですべてを受け入れたのです。

もし、神が閻魔大王のような存在なら、悔い改めとは、私達を叱責し、今までのすべてを否定し、惨めな気持ちにさせ、神に顔向けできないと、下を向かせるものです。
しかし、神はめぐみの神なので、私達は一方的に愛され、赦され、受け入れられ、私達は驚きと喜びをもって神の顔を見上げ上を向く、これが本当の悔い改めです。

私達を変えるのは、後悔や反省ではありません。悔いたつもりで、同じことを繰り返すのが私達です。私達の、心に、生活に、新しい変化をもたらすのは、恵みです。変えられたから愛されるのでなく、愛されたからこそ変えられていくことができるのです。放蕩息子が変えられていくのは、まさにこれからです。

 

私達の想像や常識を超えた、めぐみ深い父なる神、その存在こそが「福音」なのです。そして、神から受けたものを流していく生き方を選びとり、福音に生きるのです。

 

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