10月30日のメッセージ

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2022年10月30日「頂に登って、神の約束を見る

<申命記>

3:24 「神、主よ。あなたの偉大さと、あなたの力強い御手とを、あなたはこのしもべに示し始められました。あなたのわざ、あなたの力あるわざのようなことのできる神が、天、あるいは地にあるでしょうか。 3:25 どうか、私に、渡って行って、ヨルダンの向こうにある良い地、あの良い山地、およびレバノンを見させてください。」 3:26 しかし主は、あなたがたのために私を怒り、私の願いを聞き入れてくださらなかった。そして主は私に言われた。「もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない。

3:27 ピスガの頂に登って、目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたはこのヨルダンを渡ることができないからだ。 3:28 ヨシュアに命じ、彼を力づけ、彼を励ませ。彼はこの民の先に立って渡って行き、あなたの見るあの地を彼らに受け継がせるであろう。」・・・

 

34:1 モーセはモアブの草原からネボ山、エリコに向かい合わせのピスガの頂に登った。主は、彼に次の全地方を見せられた。ギルアデをダンまで、・・・・

 

<落胆や失望を経験する時>

 私達は生きていれば、突然道が閉ざされる時、自分の思い描く方法では願いが実現しない時、努力や祈りを重ねても状況が改善しない時、そんな時を経験します。そのような時の私たちは、頭と心が、今後への恐れ、誰かへの恨み、現状への不満、自分への憐みで、いっぱいになってしまいます。視野がどんどん狭くなり、心は内へ内へとこもり、気力は失われ、手と足は次第に止まってしまう・・そんな体験はないでしょうか?

 そんな時は申命記を1章から読んでみてください。モーセが自分の信仰の旅路を語る箇所です。モーセ自身も決して特別な人ではありませんでした(むしろ自分に自信がない人だったのです。)そんなモーセが人生最大の失望からどのように立ち上がったかが今日の箇所では語られています。

 モーセは、謙遜に、一所懸命に、エジプトから約束の地カナンへと人々を導いてきました。けれど、約束の地を前にして、人々の心は怖気づき、40年間も約束の地の手前で足踏みをして待たなくてはならなくなりますそして、その40年の間にたった1つの失敗をします。 (民数記20章でいつものように民が水を求めて不平不満を言いますその時、感情が溢れ、神の言葉を忘れ、まるで自分が水を出すかのように、高慢になってしまいますそこで、神はモーセが約束の地に入らせず、カナンの地に導く役割は、ヨシュアに引き継がれる、と言うのです

 80歳の時点で、体力に不安があり、祈りのために介助をされていたモーセが、120歳で約束の地に入ったからといって激しい戦いが待つカナンの地で、民のリーダーとして勤め上げるのは難しかったでしょう。また、カリスマ指導者モーセから若いヨシュアへのリーダー交代は、これからカナンの地に入り、部族ごとに別れて住むことになる人々にとって、神にこそ徹底的に頼って歩むという意味で、必要な変化だとも思います

モーセも頭では分かっていたでしょう。けれど、自分もその地に入りたかったでしょうし、自分で導き入れたかった申命記3:24~のモーセの独白で分かるのですが、実はモーセが神様に何度も祈っていたようです。しかし、神は答えます。「もう十分だ。もう言ってはならない」と。(聖書の中でも、人間的に見れば、人情的に見れば、何で?という時期に、地上から取り去られることがあるのです例:モーセからヨシュアへ、エリヤからエリシャへ、バプテスマのヨハネからイエスへ

<ピスガの頂に立つ>

 神様はモーセを突き放した訳ではありません。神様はモーセを山に誘うのです。20章の失敗の後、民数記21章でモーセと民はピスガの頂に登っています。ピスガ(ネボ山)という700メートルちょっとの山からは、600メートルに満たない高尾山からも都心まで見渡せるように、約束の地カナンを見渡すことが出来ます。

 

自分の願いや思いにばかり心が向き、小さく凝り固まっていたであろうモーセに、神様はピスガの頂から約束の地を見せたのです。例えばこんなふうにモーセに語ったのかもしれません。「あなたの思い通りではないかもしれな

いが、あなたのがんばりは決して無駄ではなかった。あなたの献身を通して、民は約束の地に入る。そして祝福がここから世界に広がっていくのだ。」

山の頂に立つことで、約束の地を見ることで、モーセの行動は変わりました。その後も腐らずに民を導き、ヨシュアにリーダーを引き継ぐ備えをしていきました。モーセは、自分は大切なことのために生きていたのだ、神の思い計りは、私の思いとは違ったが、さらに大きく豊かなのだ、そう気付くことが出来たでしょう。(もしかしたらですが、モーセは、心が塞がるたびに何度もピスガの頂に立ち、約束の地を見に行ったのかもしれません。) 

 

 そして、(申命記34章で)死の直前にもモーセは再びピスガの頂に登るのです。最後の時を前に、死への恐れや心配、自分の人生への疑問があったのかもしれません。そこで神様は再び約束の地を詳しく解説するかのように見せます。モーセはそれに満足と平安を得たかのように、その頂の上で、亡くなりました。

 

<I’ve been to the mountaintop>

この箇所をもとにした説教(スピーチ)があります。それはアメリカの公民権運動を主導したマーチン・ルーサー・キング牧師による「I’ve been to the mountaintop(私は頂に立って見てきた)」という説教です。

(「I have a dream(私には夢がある)」というスピーチで有名ですが、それ以上に有名なスピーチですね。)

1968年4月3日(暗殺の前日)にメンフィスのメイソン監督記念聖堂で最後の説教を下記のように語っています。「私自身、自分の身の上に何が起きるか分からない。これから相当困難な日々が私たちを待ち受けている。でも私はそんなことは気にならない。たしかに私も人並みに長生きしたい。でも今の私には重要なことではない。今はただただ神の意志を体現したいだけの気持ちで一杯だ。神は私を山の頂まで登らせてくれた。頂から約束の地が見えた。私自身は皆さんと一緒には約束の地に行けないかもしれない。でも、知ってほしい。私たちは一つの民として約束の地に行くのだということを。だから、私は今うれしい。私はどんなことにも心が騒がない。どんな人も怖くない。主が栄光の姿で私の前に現れるのをこの目で見ているのだから。」

 

 モーセやキング牧師のように、私たちもピスガの頂に立ち、神の約束を目に、心に刻みたいのです。失望するたびに、何度でも、何度でも頂に登り、目の前の山の向こうを、困難の先に神が用意しておられる約束を、祝福を見たいのですわたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ書29章11節)と言われているように、私の思いを超えた神の良いご計画があることを心に刻みたいのです。

 

 イエス様も十字架の死という最大の恐れを前にして、ゲッセマネの園で頂に立つ体験をしました。祈りの中で、十字架の死と苦しみの先に、私たちの赦しと救いを、神の約束と計画を見てくださった。そして、自ら十字架をかつぎゴルゴダの丘へと歩んでくださったのです。

 

 聖餐式の式文で「小さく狭い私たちの心を打ちこわし、キリストの心が私たちを満たすようにしてください。」という祈りがあります。モーセの山の頂で約束の地を見た体験のように、私たちが聖餐式でキリストの犠牲とやがての天の祝宴を覚える体験は、聖書を読んだり礼拝をしたりして神にある希望に目を向ける体験は、礼拝の賛美歌で神の約束を歌う体験は、神と出会った者の心をより広くより豊かに回復させ、その歩みを強めてくれるのです。

<本当の約束の地>

モーセは、約束の地カナンの前に生涯を閉じましたが、本当の約束の地である、神のもとへ行きました。

マタイ171~ マルコ9:2~ ルカ9:28、では、モーセはキリストとともに話し合っています。)

私達に備えられた、本当の約束の地としての天の御国神の国があります。そこでは(黙示録2122神が私たちと顔と顔を合わせて会い、涙をぬぐってくださるとあります。天に神がおられるのでなく、愛と恵みの神のおられるところが天神ご自身が私達の約束の地なのです。「この身とこの心とは尽き果てましょう。しかし神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です。」詩篇73:26 やがてこの恵みの神様に完全に出会うことを希望とし、新しい週も神とともに歩めますように。

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