10月2日のメッセージ

2022年10月2日  マタイの福音書〜神様の良い知らせ⑦

<聖書:マタイの福音書7章7〜14節>

7:1 さばいてはいけません。さばかれないためです。7:2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。・・・

7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。7:8 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。7:9 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。・・・7:11 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。7:12 それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。

7:13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。7:14 いのちに至るは小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

 

<裁き合う私たち>

 マタイの福音書から、良い知らせ、福音について、教えられていきます。マタイ5〜7章の山上の説教を要約すると、私たちは天の父なる神様に愛された、大切な存在である。天の父が必ず良くしてくださるから、安心して、神の子どもとしての道を、キリストが歩まれた道を歩みなさいというのです。

 7章では、裁いてはいけない、や黄金律(Goleden Rule)と呼ばれる14節など、神の子の対人関係が多く記されています。

 1節で「さばいてはいけません」、と命じられます。裁くとは、 裁判で善悪を決定する、人を判断・評価する、また、治める、支配する、という意味で用いられます。つまり、裁くとはただの判断や問題対応ではなく、あたかも裁判官のようになって人や物事の善し悪しを判断する、評価すること、そのことによってまるで、自分が神であるかのように、相手の上に立ち、他人を支配しようとする、ことです。

 現代の私たちの社会においても、収入、成績、容姿、社会貢献度、それらの「物差し」や「秤」(2節)によって比較・評価され、時に数値化され順序付けられることがあります。もちろん一人一人に違いはありますし、社会がより良くなるために客観的な比較・分析をすることも必要でしょう。

 けれど、それらの「物差し」によって人の価値や存在意義さえ、判断され、それらの「物差し」に頭も心も生活も支配され、自分や人の本当の価値や意味を見失っていくこともまたあるのです。

 そして、残念なことに、イエス様の時代のユダヤ宗教も同じ過ちに陥りました。どれだけ宗教的な決まりを守ることが出来たか、という「物差し」で人の価値が測られ、守れない人や、問題を抱えた人は、 罪人、呪われた者、天国から遠い者とレッテルを貼られました。

 

 今日の教会でも「裁く」という言葉が、批判的な態度で、別の人の弱さや問題を指摘し責める、攻撃する、という意味でも使われます。もちろん、誰かが道を誤りそうになった時には、忠告したり、勘違いや理解不足を指摘する必要ああります。けれど、大切なのは、姿勢や動機です。自分が神の代弁者あであるような高慢な態度で、誰かを支配しようとするような姿勢や、自分の優位や正しさを示そうとする動機で関わるなら、ヨブの友人がヨブをさらに苦しめたように、相手を傷つけ苦しめたり、互いに裁き合う、弱さや欠けを指摘し合い、互いを否定し合い、傷つけ合う状況を生んだりしてしまいます。(1〜2節)

 少し考えてみたいのですが、どうして人は裁くのでしょうか?人を否定して、支配し、優位に立ちたがるのでしょうか?そのような人と出会った時のことを思い返してみてください。自分自身がそのような状態になた時を顧みてみてください。すると、気付かされることがあります。

 そのように、自分が神のようになりたい時、誰かの誤りを否定し、それが出来ている自分を肯定したい時・・・・そのようなときは、自分自身の心が安定していなかったり、本当は自分に自信がなかったり、不満や不安を、妬みなどを内側に抱えているような人や状況だと思えます。ですから、なにかの基準や、宗教的な価値観といった「物差し」を振りかざして、相手より自分のほうが優位だと、優れていると思い、誰かを否定してまで、自分を肯定したがるのです。

 ルター曰く「罪赦された罪人」である私たちが、(きっと自分の罪は棚に上げ、赦された恵みは忘れ去り、)人の罪を指摘し、自分を誇りたくなるのです。 人を裁く人は、私たちがその状態になるときには、3〜5節にあるように、まずその人自身が神の取り扱いや癒やしが必要なのです。

<イエス様の恵みの物差し>

 イエス様の「裁き」は、私たちの「裁き」とは、異なっていました。イエス様は、当時の物差しによって、裁かれを、価値なしと判断され、見下された人と好んで一緒にいて食事をしました。イエス様は私たちとも、宗教社会とも違う物差しを持っていた、だから問題や弱さを抱えた人も、傷や痛みのある人も安心してイエス様と一緒にいられたのです。

 よく言われるのですが、イエス様の物差しは、「恵みの物差し」でした。 恵みとは、受ける価値なき者に神が一方的に与える恩寵、といった意味です。 イエス様は、当時の「物差し」で、価値なしとされていた人々を、そして私たちを、「恵みの物差し」で測り、天の父はあなたがたを気にかけているよ、あなたがたは天の父の子だよ、と語りかけたのです。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8〜9)

 私たちは裁き、誇ることで自分を満たす必要はないのです。(このような意味でも、裁くことができるのは、善悪を正しく判別し、人の本当の価値や意味をご存知な神様だけ、イエス様だけです。)

 そして、教会とは、このイエス様の物差し、恵みの物差しで、自分を、人を測る場所です。聖書にはこう書かれています。「それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」コロサイ3章13〜14節

 裁き合うだけではなく、忍び合い、赦し合うことができるのです。なぜなら、まず私たちが忍ばれ、赦されたからです。 あなた方は恵みの物差しで測られ、一方的に神に愛され、赦され、受け入れられた。だからあなたも、おなじように、自分が神にしてもらったように、人にしなさいというのです。

 ですから、有名な黄金律「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」(12節)は、ただのビジネスの秘訣ではありません。

(有名なユダヤ教指導者は「自分にしてもらいたくないことは、他の人にもするな。」と律法を要約したそうです。イエス様は、そのような背景を大切にしつつ、さらなる道を示したのです。)恵みの物差しで測られ、恵みの中に入れられた者は、恵みの物差しで人を測るのです。

<狭い門を、いのちの道を選ぶ>

 その後で、狭い門と、いのちの道が出てきます。(13〜14節)これは頑張ってゴールまで行ったら救われるという意味ではありません。私たちは狭い門をすでに選び、そこから入り、いのちの道を歩んでいる。山上の説教とは、救いの条件ではなく、救われたもののあり方、恵みを受ける条件ではなく、恵みを受けた者の生き方です。

 有名な例えに、ガリラヤ湖と死海の例えがあります。ガリラヤ湖は、上流から川が流れ込み、魚が住み、多くの人を養う水をさらに川として流し続けるのです。一方で、死海は、標高が海抜より低く、流れ出る先がない閉ざされた湖。すると塩分濃度が高くなり、いのちあるものはほとんど住めなくなる。

 相手が謙遜で、神と人に悔い改めるなら、赦しはより簡単です。けれど、みなさんも嫌というほどご存知かもしれませんが、誠実と謙遜を尽くし、相手を思いやって柔和に伝えても、うまく行かない場合があり

ます。

 自分の弱さや罪を認められず、決して悔い改めない人もいます。豚に真珠(6節)とは、そのような人のことであり、イエス様の十字架さえもないがしろにする、まさに私達人間のことでもあります。(でも、キリストは諦めず十字架にかかってくださった。本当にありがたい。) 

 赦すとは、放置や容認とは違います。社会的な対応をすべき時もあります。それでも呪うのでなく一言でも祈ったり、攻撃するのでなく、適切な距離を保ったり、その人の回復のためにも、自分自身が裁き合いに巻き込まれ恵みの物差しを忘れないためにも、最善をつくすのです。

 死刑制度に関しては様々ありますが、北欧の国々は、私たちが犯罪者への対応が手厚いことで有名です。それは後の社会がより良くなるための投資であり、暴力に暴力で返さない、そのレベルに落ちないという誇りと決心でもあるそうです。(もちろんより重い処罰をという被害者の意見もあるようです。)そして、うまく更生に繋がる場合もあれば、残念ながら、受刑者の全てが変わるわけではなく、反省すらない場合も多いそうです。

 けれど、一点、見習うべきところは、それらの国では、被害者家族へのケアや保証が充実している。怒りや恨みや呪いに、生きないように、心も生活も、周囲が全力で支え励ましてくれるのです

  

 私達もまた同じではないでしょうか。神の子として歩むには、神の恵みというケア(配慮)とキュア(癒やし)が必要です。だからイエス様は、求めよ、捜せ、たたけと言われた。いえ、言語により忠実なら、求め続けなさい、捜し続けなさい、たたき続けなさい、とご自身からの恵みと支えを求め続けてあゆむように励ましているのです。

 主の祈りでは、赦してください。赦しましたから、とある。すでに赦されているのになぜ?赦さないなら、罪の赦しが帳消しにされるの?など疑問もあります。けれど、福音書全体から理解するなら、赦された者は(恵みを受けたものは)、自分の小さな罪も悔い改め続けますし(恵みに立ち返り留まり続けます)、赦しをの恵みを味わい続け、私たちもまた人を赦し続けるのです(つまり恵みを流し続けるのです)。

 私たちには天の父がついている。すでに恵みに入れられ、今も受けている。天の父の招きに応じて、日々大胆に求めつつ(7〜11節)神の子としての道を新しい週も、歩んでください。

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