毎日の聖書9月26日〜

おざく台教会毎日の聖書 9月26日~

1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

9月26日(月)ヨブ記29章

1節「ヨブはまた、自分の格言を取り上げて言った。」

 今までの議論には、一見すると、知恵深いことや、信仰的な内容もありました。しかし、神はそれを「自分の格言」と評します。なぜなら、言葉は立派で正しく信仰的でも、心の中心には自分が居座っているため、それらを正しく用いることが出来なかったのです。あなたの心の中心に誰がいますか?自分でしょうか?神様でしょうか?

兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」ガラテヤ5章13節

9月27日(火)ヨブ記30章

20節「私はあなたに向かって叫びますが、あなたはお答えになりません。私が立っていても、あなたは私に目を留めてくださいません。

 自己中心と自己肯定に陥っていたヨブですが、唯一の救いは、「神」でなく「あなた」と呼ぶ姿勢が残っていたこと、主から完全に目を背けず、天を見上げることが出来ていたことです。天の父を「神」と呼ぶことはまちがいではありません。けれど、あなたの状態が悪いときこそ、天の父をより親しく、「あなた」と呼んで祈ってみてください。

 

しかし、私の主、神よ。どうかあなたは、御名のために私に優しくしてください。あなたの恵みは、まことに深いのですから、私を救い出してください。 」詩篇109篇21節

9月28日(水):ヨブ記31章

40節「ヨブのことばは終わった。」

 内にある全て吐き出すかのような独白が終わります。失礼な言葉、不信仰な内容もあったでしょう。しかし、神はヨブの痛みも感情もしっかりと受け止めてくださいました。だからこそ、この後、しっかりと答えてくださったのです。

 私達にもこの独白が必要ではないでしょうか?神は私たちの感情も、愚かさも、ちゃんと受け止めてくださいます。神様にあなたの内側を注ぎだしてみてください。

 

ハンナは答えて言った。『いいえ、祭司さま。私は心に悩みのある女でございます。ぶどう酒も、お酒も飲んではおりません。私は主の前に、私の心を注ぎ出していたのです。』 」第一サムエル記1章15節

9月29日(木)ヨブ記32章

1〜2節「この三人の者はヨブに答えるのをやめた。それはヨブが自分は正しいと思っていたからである。すると、ラム族のブズ人、バラクエルの子エリフが怒りを燃やした。彼がヨブに向かって怒りを燃やしたのは、ヨブが神よりもむしろ自分自身を義としたからである。

 人間は高慢・自己義認・自己中心・自己肯定という、死に至る病にかかっています。「私は正しい」(34:5)ほど罪深い言葉はありません。私たちは「神は正しい」と言ってへりくだるのです。

 

「それは、次のように書いてあるとおりです。『義人はいない。ひとりもいない。』」ローマ3章10節

「ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。『義人は信仰によって生きる』のだからです。」 ガラテヤ3章11節

9月30日(金)ヨブ記33章

12節「聞け。私はあなたに答える。このことであなたは正しくない。神は人よりも偉大だからである。」

 これを知らない人が、これを忘れた信仰者がいかに多いことでしょう。神は憐れみ深く、キリストは私たちのために命さへも投げ出しました。

 しかし、あなたは王ではなく、神はあなたに仕える下僕ではないのです。神はいと高き偉大な方です。その偉大な方が、人となり、人に仕え、十字架にまでかかってくださった。そのことに感動し、私たちは、この方の前にへりくだり、礼拝するのです。本当の幸いは、ひざまずき神を見上げるところにあります。

万物の支配者、今いまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。」黙示録11章17節

10月1日(土)ヨブ記34章

18節「人が王に向かって、「よこしまな者」と言い、高貴な人に向かって、「悪者」と言えるだろうか

 エリフにあり、ヨブ達に欠けていたもの、それは神への畏れ、神の前での遜りです。高慢な者は自分の真理を語りますが、謙遜な者は神の偉大さを語ります。エリフの言葉に従い、全地の王である神の前に、跪き、見上げる時をもってください。

あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」第一ペテロ5章6節

10月2日(日)ヨブ記35章

5節「天を仰ぎ見よ。あなたよりはるかに高い雲を見よ。」

 究極的な意味では、この地には真理や救いはありません。牧師や信仰者にも、教会堂にもありません。真理も、命も、救いも、ただ天にのみ、神にのみ、キリストにのみあるのです。だからこそ日曜日に、皆で集まり、天からの言葉に聞き、祈り、皆で天におられる方を仰ぎ見、ひれ伏すのです。

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」イザヤ45章22節

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