9月25日のメッセージ

2022年9月25日  マタイの福音書〜神様の良い知らせ⑥

<聖書:マタイの福音書6章9〜13節>

だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。

御名があがめられますように。

御国が来ますように。
みこころが天で行われるように地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。私たちの負いめをお赦しください。

私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』
〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

<天の父>

 マタイの福音書から、良い知らせ、福音について、教えられていきます。今日は6章の主の祈りの箇所です。

 あるカトリックの司祭が、「わたしの生活はわたしの祈りであり、わたしの祈りは、わたしの生活です。人は生きたように祈り、祈ったように生きます。」 と教えてくれました。また、英語にはYou are what you eat.(何を食べたかが、今のあなたを決める)という表現があり、eatの部分は、read(読む)などにも変えられますが、pray(祈る)と変えて、You are what you pray.でもあります。『こう祈りなさい』とは、神の子とされたあなたは、このように生きなさいという、イエス様からの招きでもあるのです。

 そして、イエス様は、主の祈りを、天の父よ、との呼びかけから始めるようにと、教えました。 

 神様と人間との関係は、羊飼いと羊、花婿と花嫁、王としもべ、陶芸家と器、ブドウの木と枝、など様々に例えられていますが、ここでイエス様は父と子の関係を選んだのです。( そして、山上の説教では、繰り返し、今日の6章だけで11回も、神を父と呼ぶように言うのです。)

 そして、父は、隠れたところで見ていてくださっている父(4,6節)、私たちの必要をちゃんとご存知の父(8節)、天からの報いを与えて下さる父(1節)、必要を満たし日々養って下さる父(30節)、つまり愛と知恵と思いやりに溢れた良い父であり、この方がいるから安心して生きなさい、というのです。

 この父との関係は、ただの地上の父と子の関係ではない。(残念なことに、地上の父は不完全なのです。)父なる神様と、子なる神キリストとの関係です。イエス様も、祈りの時に、父よ、と祈り、その信頼関係に生かされていました。あなたは、わたしのような父なる神との関係に生きるように、と招うのです。キリストのように、山上の説教のように歩むには、この父と子の関係が欠かせないのです。

<補足>

 そして、放蕩息子の帰郷(ルカの福音書15章でのキリストの例え話であり、家と父を捨て、遠い町 で  放蕩の限りを尽くしボロボロになって帰郷した息子を父が受け入れる話)に代表されるように、聖書は、私たち人間にとって神様を父と呼ぶことは、自然なこと、だと教えています。

 一般に、この国では、特定の宗教や信仰を持たないのが普通の状態であり、神様を心から信じ、真剣に生きることは、普通でない、何か特別なことと考えられています。時に、宗教に頼るのは弱い人のすることであると考えたりする。文化や習慣としては良いけれど、生活の中心や生きる基盤ではない。真剣に生きれば宗教にハマったとか、かぶれた、などと言われます。

 けれど、聖書では逆なのです。人にとって父なる神様を愛し、礼拝することは、特別な事ではなく、 むしろ、自然な、あたりまえの、本来の、あるべき、姿です。宗教(Religion)という言葉は、ラテン語はReligioで再び(Re)・結びつく(Ligare) という成り立ちです。切れていたものが繋がれる、断たれていた関係が回復する 家出をした神の子達が、父のもとに帰っていく。宗教の役割は、本来の神との関係を、本来の生き方を、私たちが取り戻すことです。

 

<天の父がいるから>

 その生き方とは、山上の説教に、イエス様の生涯に示された生き方です。

 山上の説教は、その前の部分で、当時の宗教家や異邦人と対比されています。善行や祈りなど、本来は素晴らしい宗教行為を、わざわざ人に見せびらかし、周囲からの評価を得ることを目的とした宗教家。神を自分を幸せにする道具かのように考える異邦人。

 そのあり方は、一見すると宗教的でありながら、自分に信頼し、人からの評価に依存し、何を食べるか、何を飲むかにばかり関心がありました。裏返せば、他者への関心が薄く、人との関わりも自己中心的で、いつも不安があり、神様が願う生き方とはかけ離れた歩みになってしまう。(自分は宗教家の祈りに、異邦人の祈りに生きてしまう、そう思う時もあります。)

 あるこども向けの本では主の祈りを一言で、このように書き換えていました。『神さま、この世界が、天国に似たところとなるように。わたしにも神さまの子どもらしいことが、できますように。』 (主のいのり ロイス・クック著 女子パウロ会出版)

 確かに、山上の説教や主の祈りのような、自身の願望や欲求よりも、神様の心を大切にする生き方は、損をするのではないか、苦労ばかりするのではないか、報われないのではないか、そう心配になります。

 だからこそ、天の父に信頼するのです。 神の国とその義を第一に求めなさい(33節)、天に宝を蓄えなさい(20節)、これは、宗教的に生きよ、とか、世捨て人のように暮らせ、とか、無計画で大丈夫とか、そういう意味ではないのです。神の国、天、それらは、父なる神と同義語です。父なる神に信頼しなさい、必ず良くしてくれるから、だから安心して、父なる神が示した道を、キリストに従う道を歩みなさい、ということなのです。

 たとえ陽の当たらない仕える役割を担い、評価も感謝もされなくても、あなたの生涯を見て、必ず報いてくれる天の父がいる

 周囲が様々な価値観であなたを振り回す時も、あなたの本当の必要をご存知で、日々養い、着飾って下さる天の父がいる

 だから、世捨て人のように周囲と断絶して生きるのではない、私は頑張っている・我慢していると神経質に他の人を裁いて生きるのではない、 天の父が見ていて下さる、良くして下さる、養って下さるという安心感に支えられ生きるのです。

 カール・バルトという神学者は、クリスチャンの歩みを『最後から(究極の)一歩手前の真剣さで真剣に生きる』のだとしました。究極的には、私たちは神に救われているから、父なる神の恵みの中にすでに入れられているから、目の前の出来事に一喜一憂したり悲観したりせず、『力強く、落ち着いて、ユーモアをもって』(バルトの好んだ表現です)、神に従って生きることができるのだ、というのです。

(きっと、マザーテレサも、中村哲さんも、しなやかに生きたのだと思います。)

 感謝されたい、報われたい、苦労は避けたい、満たされたい、多くのものに溢れたい、そんな思いもあります。けれど、そんな時、私たちは自分に向けて、また周囲の人に向けて生き、狭く暗い心になってしまう。

 私たちの宝のあるところに、私たちの心もあり(21節)、私たちの目が天の父に向いているなら私たちの心は明るい(23節)のです。ですから、Audience of One (たった一人の観客、つまり天の父)に向けて、生きるなら、私たちの歩みは、キリストの歩みに似せられているのだと思います

<今週の黙想>

 朝ごとに、主の祈りを祈り、天の父に向けて毎日を生きてみてください。

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