6月19日のメッセージ
おざく台教会2022年6月19日「聖霊きたれり④〜ステパノ〜」
<ファミリータイム>使徒の働き
7:55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、7:56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」 7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。 7:58 そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。7:59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」7:60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。
<私達への神の計画>
今日は父の日です。教会からは、すべての男性にカードとお菓子のプレゼントがあります。カードに添えられた聖書の言葉は、『男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。』(第一テモテ2:8)です。
みなさんは、どんな人でありたいと願っていますか?私は、夫であり、親であり、教師であり、牧師であり、いろいろな立場がありますが、どんな父であればいいですか?、どんな教師であればいいですか?、と信仰の先輩方に聞いたことがあります。すると決まって、キリストの心を持った人であってください、キリストに似た人であってください、キリストに倣う人であってください、と言われ、とても心に響きました。
親として、教師として(その他の様々な立場であっても)、どう振る舞い、どう選択するか、それは状況やタイミング、自分の特質や能力、相手の様子、などによって様々であり、どんな場合も通用する唯一の正解というのはないかと思います。また仮に、”正しい”理論や行動であっても、自分の気分や感情、都合やこだわりに影響され、正しくない動機や、愛や憐れみを忘れた心で行い、悪い結果を招いてしまうこともあります。
ですが、キリストの心を求め、キリストに倣い、キリストに従いながら行うなら、決して自己中心から人を傷つける間違いはおかさず、人を祝福することにつながる、という意味だそうです。
そして、キリストに似ることは、神様の私達への心からの願いでもあるのです。聖書には、こうあります
『神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。』(ローマ8:29) また、『互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。』(コロサイ3:9~10)
キリストに似るとは、表面的に、言語、容貌、言動をそのままコピーすることではありません。内側から、心から始まります。私達がキリストと日々深く出会うこと、キリストのように物事や人を見つめ、とらえ、受け止め、感じ、キリストの愛と憐れみの心であることです。その結果として
私達の言葉を聞いた人が、呪いの言葉ではなく、神の恵みの言葉を聞くこと。
私達と接した人が、人の罪深さではなく、キリストの愛を体験すること。
キリストが友となったような悲しむ人と、正しく歩めない人と、へりくだり、壁を超え、友となること。
キリストが赦したように、赦し、その人のために祈り、時に罪や泥をかぶること。
それぞれの個性や特質を持ちつつも、キリストに似たあなたになること、それが神様の私達への願いなのです。
信仰のきっかけは人それぞれですが、私の大学の友人は、教師としての自分の姿勢を省みつつ、聖書と出会い、キリストに倣いたいと教会に足を運びました。
自分本意に生きるなら、キリストは、教会は、聖書はいらないかもしれません。けれど、キリストに出会う時、「あぁ、これが私達の有るべき歩みだ」と、感じます。私達の心がキリストの心となること、私達ががキリストに似せられること、神様の願いだけでなく、それが私達の心からの願いでありたいのです。
<聖霊によって>
私達は、生活が順風満帆で、精神的に余裕があれば、少しはイエス様に似た歩みが出来る(志す)気がします。けれど、仕事に、家族に、人間関係に、健康に、問題が起きた時、自分の罪や弱さや愚かさが現れてしまい、それを繰り返す内に、キリストに倣うことを、キリストの心で歩むことを諦めてしまうのです。
けれど、どうか諦めないでください。聖書の中で、イエス様に似た歩みをした人として、ステパノがいます。ステパノは初代教会の執事。教会に身を寄せてきた生活に困る人達の支援に当たっていました。また、キリストのことを伝えたため、イエス様も呼ばれたユダヤ議会(サンヘドリン)で裁判を受けます。そこで、キリストを伝え、ユダヤ人の罪を指摘したため、暴動のようになり、石を投げられて殺されそうになります。
みなさんは、石を投げられるような苦しみや困難の時、どう祈ってきましたか?
私なら、石を投げるのを止めさせてくださいと、または、石が当たらないようにと、それがだめなら、自分が死んだ後きつい天罰を下してください・・・でしょうか・・・けれどステパノは、神に委ねる告白をし、石を投げる人たちの救いを願うのです。
7:59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」7:60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。
この祈りは、ステパノの祈りであり、同時に、イエス様の祈り、十字架での祈りです。
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわか
らないのです。」 ルカ23:34
イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。」ルカ23:46
ルカの福音書と使徒の働きは、同じ著者ルカから、同じ受け取りてテオピロに向けられた前半、後半のような内容です。ルカは、キリストの2つの言葉と、ステパノのこの2つの言葉を記すことで、私達に示したのです。私達はキリストの心を持つことができるのだ、イエス様に似せられていくことができるのだ、と。
このようなステパノの姿は、彼の才能や努力や生活習慣によるのではありません。聖書には何度もステパノは『聖霊に満たされていた』と繰り返されています。
使徒パウロが『私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。』(第二コリント3:18)と記したように、神様の力によるのです。ですから私達は、聖霊なる神様が私達の心を照らし、満たし、支配し、導いてくださるようにと、切に祈るのです。
<決して無駄ではない>
信仰者は心の中で、神に従ったら損をする、キリストに似たいと願うなら苦しむことになる、そう恐れて、神様に自分を委ねられない、と聞いたことがあります。自分も少し、ドキッとしました。
今日の箇所で、私達の目から見れば、ステパノは報われません。誠実に歩み、人に仕え、真理を語り、一方的に殺されました。誠実な良い人であるから、御霊に満たされているから、災いに合わず、全てが順風満帆である・・わけではないのです。
このステパノの話には続きがあります。7章58節を御覧ください。そこにステパノの殺害に加担したサウロという青年がいました。この青年は8章ではクリスチャンを迫害します。やはり無駄死にでしょうか?
いえ、サウロは9章で、幻の中でキリストに出会い、回心し、伝道者パウロとなります。アジア・ヨーロッパを回りキリストを伝え、たくさんの教会を生み出し、新約聖書の多くの部分を記します。御霊に満たされた、キリストに似せられた、ステパノの祈りは、聞かれていたのです。神は神は応えてくださったのです。忘れないでください。あなたの祈りは、誠実は、従順は、決して無駄ではないのです。
<今週の黙想>朝ごとに、聖霊の満たしを、キリストの心と歩みに変えられるように、祈ってみてください。