4月10日のメッセージ

2022年4月10日「十字架の上の7つの言葉~御手にゆだねます~」

 

23:44 そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。 23:45 太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真二つに裂けた。 23:46 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。   ルカの福音書

 

<ゆだねる>

私達が過ごしている受難節とは、また今週の受難週は、キリストの苦しみを覚え、自らの罪を悔い改め、神と人の前にへりくだる期間です。けれど、ウクライナの地でも、他の場所でも、その正反対のことが起こっています。

ニュースでは「力による現状変更」という言葉を多く聞くようになりました。自分の主張や主導権を握りしめ、相手や状況を自分の思い通りにしようとする。そのためなら手段を択ばず、神を神とも、人を人とも思わない。テレビに映る海外の指導者達に、怒りと不安を覚えつつも、その愚かで醜い性質が、聖書の人物たちにも、自分の周囲の人にも、そして、私自身の内側にも、あることを思わされました。その自己中心さこそが、聖書では、罪の本質とされています。

 

だからこそ、今日の十字架の言葉を聞きたいのです。キリスト教には、「ゆだねる」という大切な言葉があります。最初にこの言葉を聞いた時には、流れに身をゆだねる、運を天に任せる、下駄を預ける、といった意味にも聞こえ、少し消極的な印象を受けました。しかし、これは誰よりも、懸命に、そして誠実に生きたイエス様の生き方であり、死の直前、十字架での最後の叫びだったのです。

 

<ゆだねるとは、手を開き、差し出すこと>

「ゆだねる」という言葉(パラティセーミ)は(相手の)横に(パラ)置く(ティセーミ)、自分の手を離れ相手次第になるというニュアンスです。「ゆだねる」の原語的な意味は、自分の持ち物や時間、力、自分自身を手放して相手に差し出すこと、その結果や反応さえも相手次第になるということです。

この言葉は、イエス様が人々を教える時や、5千人の給食で食事を与える時にも使われました。イエス様の普段の生き方そのものが、言葉、時間、力を、人生そのものを、神に、人に、手を開き、伸ばし、差し出していたのです。そして、応答や結果さえも、握りしめず、相手に任せていたのです。

 

一方、私達は、相手に差し出すなどできません、自分で握りしめていたい。全てがコントロールできないと不安でしかたないのです。自分自身はもちろん、周囲の人も、状況も、まるで自分のものであるかのように、まるで自分が神様かのように考え、思い通りにならないと、焦り、怯え、怒るのです。

けれど、イエス様は知っていたのです。自分も、人も、世界も、人間のものではなく、神のものであることを。神のものを、自分だけのものとして握りしめた時、本当の生き方から逆に離れていくことを。自分のものは、神から与えられたもの、いえ、神に預けられたものであることを。だから、イエス様は、握りしめず、自己中心にならず、神と人に自らを差し出して生き、差し出して死なれたのです。

 

イエス様は十字架にかかり、救いといのちを私達に差し出してくださった。応答さえも、私達にゆだねてくださった。この受難節、私達はこの方の十字架に、どのように応えましょうか?

<ゆだねるとは、引き受けること>

ゆだねるとは、引き受けるという意味も聖書から読み取ることができます。イエス様は、与え差し出す生涯に伴う、多くの痛み、苦しみ、悲しみ、悩みを引き受けました。

そして、今日の箇所では6時間十字架にかかっています。十字架で死ななくてはいけないなら、すぐに霊を渡せば、肉体的な痛みや恥、神との断絶の苦しみを避けられたのでは?とも思います。けれど、イエス様は、十字架で本当は私達が体験すべきものを、身代わりに引き受けてくださった。痛みも、恥も、苦しみも、孤独も、神なき絶望も、しっかりと逃げずに引き受けたのです。

 

私はどうしても苦労があると、自分中心の狭い視野でとらえ、苦労そのものに目が向き、心がいっぱいになってしまいます。そんな時、礼拝で歌う「善き力にわれ囲まれ」の「たとい主から差し出される、杯は苦くとも。恐れず感謝を込めて愛する手から受けよう。」という歌詞を聞き、はっとさせられました。目の前の苦労の奥には、それを愛と私たちの考えを超えた配慮をもって差し出してくださっている方がいることに気づかされました。

 

イエス様はただ苦労をしたわけではない。ゲッセマネの園で祈ったように、その背後にいつも神を見ていたのです。イエス様は、神が「生きよ」と言われた生涯であるから、「御心である」と言われた十字架だから、それを差し出した神様なら必ず意味があるから、それに伴う苦労を引き受けたのです。私達も、苦労そのものだけでなく、それを許し、差し出された方を見て、その意味を聞きたいのです。

 

<ゆだねるとは、信頼すること>

イエス様は最後に、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と叫ばれました。

「父よ。」という呼びかけは信頼の言葉です。この時イエスは私達の罪を引き受け、長年支えとなっていた神とのつながりはもうなかった。祈っても返事がない。耳を傾けても聞こえない。初めてのことで戸惑いや失望、恐れ、不安で仕方なかったでしょう。

しかし、見えなくても、感じなくても、聞こえなくても、イエス様は信頼した。今までもゆだねていた父の御手はいつも良くしてくださった。苦しみもあるが、良いことのために用いてくださった。今回も、必ず良くしてくださる、そう信頼し、「父よ。」と呼び、良い方の御手に、ご自身をゆだねたのです。

 

私達は十字架で霊を渡すわけではありませんが、自分自身を、自分に預けられたものを、握りしめず、力を緩め、自分を神と人の前に差し出す歩みを日々選んでいきたいのです。自己中心な自分に死ぬ体験を、少しずつでも積み重ねていきたいのです。「神のみこころに従ってなお苦しみに会っている人々は、善を行なうにあたって、真実であられる創造者に自分のたましいをお任せしなさい。」(第一ペテロ4:19)

 

私達にはどれだけ握りしめようとも、どうにもできない時が来ます。また、やがては、自分に預けられたいのちを神の前にお返ししなくてはいけない時が必ず来ます。その時に、「父よ、わが霊を御手にゆだねます。」と、神が必ず良くしてくださると信じて、復活を信じて、神にゆだねる選択をしたいのです。

日々、神に信頼し、ゆだね歩んでいるなら、私達にとっての受難の時も、また大切な決断の時も、やがての地上の最後の日にも、握りしめ損なうのでなく、神にゆだねいのちを得る選択が出来るのだと思います。

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