4月3日のメッセージ

2022年4月3日「十字架のことば~ヨハネ~」

 

19:30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。                         ヨハネの福音書

 

<大切な言葉>

聖書は神様からの手紙、神の自己紹介の書、と言われます。手紙や書物の中には、とりわけ大切な言葉があるように、きっと神様にとっても、この言葉をいつも耳に、心に、魂に響かせてほしいという言葉があると思います。その一つが十字架の死の間際に、苦しい息のもと、イエスが宣言してくださった今日の言葉、「完了した」です。

 

<What(なに?):贖いが「完了した。」>

イエス様は、十字架で死の間際、「もうダメだ」でも「失敗した」ではなく、「完了した」と言われました。別の訳では「成し遂げられた」とも訳されます。イエス様の受けた十字架刑とその死は、失敗でも敗北でもなく、完了、完成、成就だったのです。

こんな聖書があります。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」マルコ10:45

十字架は、『贖いの代価として、自分のいのちを与えるため』、でした。イエス様が十字架で完了したのは「贖い」でした。「贖い」(Redemption)とは、持ち物・大切なものを別の代価や犠牲によって取り戻すことを意味します。例えば土地や財産を買戻したり、身代金によって奴隷を解放したり、罰を受ける身代わりに犠牲の生贄を捧げたりなど、犠牲を払い本来の所有者のもとに取り戻すことです。

 

<Where(どこ?):神へと帰る道が「完了した。」>

贖いは方向性が大切です。救い・贖い、と聞くと、困難や死といった、悪い状況・場所から解放されるとイメージしていました。でも、それで終わりでない、そこから出て、本来の場所に、神様のもとに帰ることまでが、本当の救い(贖い)なのです。

「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」(コロサイ1:13)「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(Ⅰペテロ2:24)

私が道です、と言ったイエス様を通して、私たちが今礼拝にいること、神に心を向けていること、それはイエス様が命を懸けて、「完了」してくださったことなのです。

 

<How(どのように?)・When(いつ)・Who(誰):十字架で、すでに、イエス様が「完了した」>

みなさんは、「自分は神に愛されるにふさわしくない」、とか、「正しく歩めない自分は救われていないのではないか?」と考えたことはないでしょうか?(皆さんの不安は、謙遜さゆえです。神を神とも思わない人はそのように考えません。ルカ23章の十字架の強盗のように、自分と神様との関係を気にかけることが出来ているなら、それは健全であり、もう神と出会っている・救われている証だとも言えます。)

どうかいつでも、安心して礼拝に来てください、安心して祈ってください、安心して洗礼を受けてください。確かに私達には罪や醜さや悪があります。贖いという言葉には、代価が伴うという話もしました。けれど、その代価は、私達がこれから支払うのではない。すでにイエス様がご自身のいのちで支払ってくださった。イエス様は十字架で罪の罰を身代わりに受けてくださった。(罰とは痛みではなく、神から離れることです。)「完了した」には、支払いが終わった、という意味もあるのです。罪に伴う罰は、十字架でキリストがすでに受けてくださった。もう支払いは済んでいるのです。

教会は歴史には『異端』と呼ばれる、間違った教えがありました。異端とは、神様やイエス様を否定することではありません。十字架、プラス、アルファ、十字架に何かを付け加えることです。

十字架プラス・・・決まりを守ること、宗教的地位、豊富な知識、特別な体験、心の確信、熱心な奉仕、などなど・・・十字架では不十分とするのです。そのほうが、達成感も、満足度もあるでしょう。けれど、イエス様は言いました。「完了した」と。すでに、支払いは済んでいるのです。

 

もっと何かをしたから、さらに何かを身につけたら、より理解が深まったら・・・神に愛される、救われる、救いにふさわしくなる、と考えていませんか?新しく生きることは良いことです。変わること、知ること、成し遂げること、は素晴らしいとです。けれど、順番を間違えないでください。私たちは、新しく生きたから救われるのではありません。すでに救われたから、新しく生きるのです。

 

イエスは、賢い人や立派な人の横へ行って「完了した」、とは言いませんでした。私達の涙や、成長を見て、「完了した」とも言いませんでした。十字架の時、弟子達はイエスを愛するどころか、逃げ出しましました。宗教家は、反省するどころか勝ち誇りあざ笑っています。イエスはそんな人々を見ながら、十字架の上で、たった一人で言われたのです。「完了した。」と。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」第一ヨハネ4:10

私たちはこれから愛される者ではありません。すでに、イエスの十字架によって、愛された者なのです。

 

<Why(なぜ?):神の愛と期待ゆえに「完了した」>

今日は礼拝の中で聖餐式があります。今日の「完了した」は聖餐式の時に、イエスが話した神の国の例え話と合わせて語られることがあります。

「宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に、『さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから』と言わせた。」(ルカ14:17)

そして『来たれ、すでに備わりたり』と宣言され、聖餐が行われました。このたとえ話では、どんな人でも宴会に招かれました。神と出会うのに、聖餐を受けるのに、神に愛されるのに、私達の妨げとなるものはありません。イエスがすでに「完了した」のですから。

 

他の宗教は「完了」を目指しますが、キリスト教は「完了」から始まるのです。ある時イエス様の食卓にマタイと言う罪人が招かれました。そして、まず愛され神の子となりました。罪人マタイは、他の罪人をイエス様の食卓に招くようになりました。イエス様によってお腹だけでなく心を満たされたマタイは、今度は他の人に糧を配る、お弟子さんになりました。神の「完了」は自己完結とは違う、古い自分のままで、自分の中だけで、とどまるようなものではないのです。

私達は聖餐を受けます。自分が神の子とされたのだと、「完了」を覚えます。すると、私達も自己満足では終われません。内側がよりキリストに似るように願い、外側にも受けた恵みが溢れ流れるように願い、心と身体が動き出します。神の完了は、神と歩む日々の始まりなのです。

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