3月20日

2022年3月20日 「十字架の上の7つの言葉~マタイ・マルコ~」

 

27:45 さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。 27:46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。          マタイの福音書

 

<見捨てられたと言いたくなる時に>

先日の3月11日で東日本大震災から11年となりました。この2年間、私たちはコロナ禍を経験しています。ウクライナでは前世紀に戻ったかのような戦争に言葉を失っています。

私たちの生涯や生活を振り返っても、様々な困難があります。自分の蒔いた種を刈り取っているなら仕方ないのですが、何の落ち度がなくとも苦しむこともあります。望ましくないことが起きる時、労苦が報われない時、誰かの罪の犠牲となる時、不安、怒り、疑い、自己憐憫で心がいっぱいになり、私たちも「神も仏もあるものか」、信仰があれば「どうして見捨てるのか」と言いたくなります。

生きている限り、神の愛を疑いたくなる状況に出会うことがあります。私達は、その時の、苦しさや悲しみ、痛みを、軽視する必要はありません。けれど、そのような時にこそ、今日の十字架の言葉を思い出していただきたいのです、

 

<悲しみを知る神様>

今日の箇所では、私達を救うはずの神様が十字架で苦しんでいます。私たちの状況を変えるどころか、自らが悲惨な状況の中にいて、自分で自分を救ってみろと、敵からあざけられています。

 

イエス様は、私達が神に見捨てられた、と思うような状況を何度も経験しました。貧しさや乏しさ、先への不安の中で育ちました。若くして父を失い、母や兄弟からも理解されません。親族であり唯一の友人ヨハネは殺されました。批判され、誤解され、暴言を吐かれ、脅迫されました。周囲の人々は手のひらを返し、弟子たちは離れ、ユダには裏切られ、一番弟子のペテロには3度も知らないと言われました。不当な裁判にあい、死ぬほどの鞭を打たれ、侮辱されました。裸で十字架にかけられ、肉体の痛みと、死への恐怖を体験しました。

 

私たちの神様は、「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53章)と語られた、「悲しみの人」と呼ばれた不思議な神様です。

 

この世界に全く同じ悲しみはありません。けれど、悲しみどうしが響き合うことがある。親しいという字が、悲しみを共に見る、という成り立ちであるように、悲しみを背負うことでつながり深まる関係もまたあるのです。

カトリックの詩人で批評家の若松英輔さんが先日NHKの番組で「悲しみは扉のようなもので、それを通らなければ、たどり着きえない場所がある。」と語りました。神が、高いところから見下ろすだけの方なら、悲しみは、いかに自分が神から遠いかを突き付けるだけです。しかし、キリストは低いところに来られ、痛みを、悲しみを、病を、身をもって「知って」くださった。「悲しみの人」となり近づいてくださる神だから、私たちは心を開くことが出来る。キリストの苦しみゆえに、私達の悲しみはただの悲しみではなく、神への、救いへの扉となったのです。今日の言葉は、苦難の中でこそ聞くことが出来る、気づくことが出来る、「私はあなたとともにあるよ」という神様からの招きでもあるのです。

 

<キリストの悲しみ>

十字架の7つの言葉の4番目の言葉がいつどのような状況で言われたかに目を向けたいと思います、イエス様は、貧しさや、裏切り、非難や、痛みや、恥など、一つ一つの苦しみを指して、見捨てられたとは言わなかったのです。午前九時に十字架につけられた時ですらありません。イエス様がそういったのは正午から午後三時の暗闇の中の最後でです。

 

イエス様が恐れたのは、十字架の痛み、苦しみ、死ではなく、暗闇です。暗闇は、エジプトへの災いや黙示録に代表される神の裁きを表します。神の裁きとは、日本的な血の池地獄に代表される苦しみではなく、神との断絶、神の不在です。十字架の死とは、神から切り離される(ガラテヤ3:13)ことを意味したのです。そして、すぐさま5つ目の言葉を発します。「わたしは渇く」。

 

イエス様は、乏しくても、誤解されても、非難され、脅迫されても、喪失を経験しても、その状況を指して、見捨てられたとは言いませんでした。私たちなら耐えられないような状況の中でも、「渇く」とは言いませんでした。しかし、十字架で私達の罪を背負いきったとき、神様から切り離されたとき、神との絆を失ったとき、神の子が見捨てられたと叫び、いのちの泉である方が、「渇く」と言われたのです。

 

<キリストへのNOは世界へのYes>

マタイとマルコに記された、十字架の言葉はこの一見ネガティブな一言だけです。逆に言えば、マタイやマルコはこの一言がどうしても伝えたかったのです。

理解するカギが「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、・・・私たちを神のみもとに導くためでした。」(ペテロの手紙第一3:18)に「身代わりに」という言葉です。身代わりと言うことは、本来「どうして見捨てるのだ」というのも、「渇く」というのも、私たちが言うはずの言葉なのです。それを身代わりにキリストが言ってくださった。

 

そしてこの後神殿の幕が、神と人を隔てる分厚い幕が、上から下に(神によって)裂けました。

「キリストへのNoは、世界へのYesである。」という言葉があります。この世界で本当の意味で見捨てられたのはイエスだけです。どんな状況でもイエス様を生かし潤した神との絆を、私達は得たのです。十字架のゆえに、「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(へブル13:5)と誓われているのです。

この十字架の第四言はただの嘆きではなく、キリストから私達への宣言です。「わたしが見捨てられた、だからあなたは見捨てられたと言わなくていい。私が渇いた、だからあなたは渇かなくていい。」という良い知らせなのです。

 

 

<今週の黙想>詩篇22篇を、十字架に思い巡らせながら、読んでみてください。

 

十字架の第四言は、詩篇22篇の1節です。この詩篇は、最初は失望と苦悩の歌が、やがては希望の賛美歌となります。それは人間の力では難しく、実際苦しみは嘆きや失望で終わる。けれどキリストの十字架によって、この22篇は本当の意味で実現するのです。

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