毎日の聖書1月17日~

おざく台教会毎日の聖書 1月17日~

1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

1月17日(月)士師記15章

15節「サムソンは、生新しいろばのあご骨を見つけ、手を差し伸べて、それを取り、それで千人を打ち殺した。」

見向きもされない、誰も手に取らない、役立たずの骨も、力強いサムソンが用いれば大きな力となりました。自分を、ろばの骨のように感じますか?自分や人の目には役に立たないように見えるかもしれない私達も、力強い神が用いてくださるのです。

ところで、神は今日、あなたを何に用いようとしていますか?サムソンのように人を傷つけるためでなく、人を癒し生かすために、神があなたを今日豊かに用いてくださいますように。

「私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」Ⅱコリント12章10節

 

1月18日(火)士師記16章

28節「サムソンは主に呼ばわって言った。『神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。』」

傍若無人でおよそ敬虔とは言えないサムソン。けれど、神は彼の小さな信仰のきらめきを見逃さず祈りを聞かれました。サムソンはただ復讐だけを望んだだけなのかもしれませんが、イスラエルを苦しめるペリシテ人を退けるという思いは神と一致していました。

信仰とは表面・外面の立派さでなく、内なる神への心です。たとえ時に的外れでも、私達の心が、神様の心と少しでも重なることです。神様の心とあなたの心が重なるように、あなたを通して神様の良い心が表されるように、祈り一日を始めてみてください。

 

「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」マタイ6章10節

 

1月19日(水)士師記17章

6節「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」

士師記の最後、21章25節などにもあり、士師記をまとめたような言葉です。私達は「自分の目」で様々なことを判断して生きる責任があります。しかし、「自分の目」は完全ではなく、それを過信した民は堕落しました。

自分の目や人の目を大切にしつつも、「神の目」を第一に大切にしたいのです。あなたの心にある出来事について、「神様、あなたはどうご覧になっていますか?」と祈り聞いてみてください。

 

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」Ⅱ歴代誌16章9節

 

1月20日(木)士師記18章

20節「祭司の心ははずんだ。彼はエポデとテラフィムと彫像を取り、この人々の中に入って行った。」

自分の名誉につながる提案に、祭司の心ははずみました。誘惑や罪の前に、人の心ははずむのです。あなたの心は日々何にはずんでいるでいますか?

どうか私たちの心が、神の素晴らしさにはずみ、人に仕えることにはずみ、神の栄光につながる物事にはずみますように。

 

「わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」詩編40篇8節

 

1月21日(金)士師記19章

23節「いけない。兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでくれ。」

堕落した時代の大勢の人々に、男性は無力で小さな声でも訴えます。神に背く時代に、平和を壊す社会の動きに、罪を求める自己中心な私達の内側に、この男性の言葉が必要なのです。

この人を通して神様は、あなたのどのような性質や行為に対して、こう叫ぶでしょうか?あなたは神に動かされ何に対してこう叫びましょうか?

 

「悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。」Ⅰペテロ3章11節

 

1月22日(土)士師記20章

23節「そしてイスラエル人は上って行って、主の前で夕方まで泣き、主に伺って言った。『私は再び、私の兄弟ベニヤミン族に近づいて戦うべきでしょうか。』すると、主は仰せられた。『攻め上れ。』」

神の民が悪に堕ちるのは、神の民が互いに争い合うのは、なんと悲しむべきことでしょうか?神様を信じつつも、悪魔の言いなりになっている人のために、祈ってみてください。また、あなたと対立している信仰者のためにも祈ってみてください。神様はその祈りをきっと喜んでくださいます。

 

「わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」マタイ5章44節

 

1月23日(日)士師記21章

2節「民はベテルに来て、そこで夕方まで神の前にすわり、声をあげて激しく泣いた。」

神の民は民族の分裂と、その結果一つの部族を失うという痛みを経験しました。悲しみの中必要なのは、神の前に出て祈ることでした。そして、3節のように思いを神に叫ぶことでした。
礼拝の中で(感動とは別にして)自然と涙が流れた時がありました。自分は深く悲しんでいたのだと、神様の前にそれを注ぎだす必要があったのだ、と気付かされました。自分は大丈夫!と思い込んでいた頭に対して、心や身体がそれを教えてくれたのかもしれません。

あなたは神様の前に注ぎ出す必要のある思いはありますか?

 

「私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し、私の苦しみを御前に言い表します。」詩編142篇2v節

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