クリスマスイブ礼拝と、19日のメッセージ

クリスマスイブ礼拝 12月24日(金)10時~&18時半~

教会堂(大人12名程度)、ZOOMは中継のみ。
ご希望の方は、ご連絡ください。
2021年12月19日『クリスマス③~自由への鍵~』 マタイの福音書より
2:11 そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
このクリスマスは、(クライスト/キリスト+マス/ミサ礼拝・聖餐)、つまり、キリストを礼拝する日、キリストを拝む日。華やかに盛り上がる日でなく、静まって伏し拝む日です。
この「拝む」とは、元のギリシャ語では、キス・口づけの対象と言う言葉。愛し、身も心も捧げる存在。影響され、心と頭を奪われ、そこに満足や幸せや生き甲斐を見出すのです。その意味で人は自然と何かを拝み、何かを崇拝しているとも言えます。レジャー、アイドル。お金や財産や地位。思想や価値観、集団や組織。人物や、自分自身かもしれません。何を拝むかによって、私達の生き方は変わってきます。生き方によって、人が本当は何を拝んでいるかが、明らかにされます。私達が拝むものは、人や自分を生かすでしょうか?損なうでしょうか?
日本の国立国会図書館のホールには、キリストの言葉が刻まれています。「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」ヨハネ8章32節。さらにキリストは言います。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)そのキリストは、大学でも、お城でもなく、馬小屋で生まれました。ただの奔放や身勝手とは違う、本当の自由へのカギは、飼い葉おけで生まれ、十字架で死なれたキリストにあるのです。
<自分の常識から自由になり、非常識な神と出会う>
博士達は、東の国、かつてのバビロニア、現在のイラクあたりからはるばる旅をしてきました。絵にあるような3人ではなく、何十人もの大行列であり、ヘロデ王とも会うことが出来る位の高い人達。そのような人達が、その生活を、時間を、力を、財産を、犠牲にして、拝みにきた。彼らの国にも神や王がいて、彼らには経験や、知恵や、常識や、こだわりがあったでしょう。それが、はるばる旅をして、小さな国の、小さな町の、家ではない馬小屋の、餌箱の赤ちゃんに出会う。常識にてらせばがっかりして帰るか、怒り出すのが普通です。けれど、彼らは目の前の幼子の前にひれ伏したのです。
私達の持つ、常識、経験、価値観はとても大切です。大抵の場合、それらは有益であり、あなたは正しいのかもしれません。けれど、時にそれらに固執するあまり、すぐ目の前のキリストに、目と心とが向かない時があるのです。本来良いものであるはずの正しさが、私達の心を不自由に縛り、神と人を愛することを妨げる場合があるのです。
神と出会うとき、人と関わるとき、この博士たちのように、まず先に飼い葉おけの赤子を拝みたいのです。
「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」ピリピ2:6~8
幼子を拝むとは、この非常識なくらいの神様の謙遜が、自分のためであったと受け止めることです。それを受け止めて初めて、私達は、自分の常識や価値観を、正しく用いることが出来るのだと思います。
<王座から自由になり、十字架のキリストを王座に>
2:3 それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。
ヘロデ王様(BC4年没)は博士たちから王様の場所を尋ねられて、恐れ惑いました。別の訳では「不安を抱」いた。自分以外の王を認めたくない、他の存在にひれ伏したくない、自分こそが世界の中心でいたい。私たちにもある素直な願いだと思います。彼はたくさんのものを建設しましたが、それは自分を誇示したい、逆に言えば自身のなさの裏返しでした。彼はいつも不安だったと思います。妻や三人の息子をはじめ、多くの人を殺しました。自分を批判しそうな知識人たちを全員とらえ、自分の死と同時に処刑するように取り決めた。そして、自分以外の王を殺そうと、兵士達をベツレヘムへと差し向け、その年齢に該当する男の子たちを皆殺しにします。私が王様でいたい、私こそが礼拝されたい、物事が常に私に都合よく進まないと満足できない、だから自分を脅かすような他の人の存在が邪魔だったのです。これは自由でしょうか?
 「陳は国家なり」と言ったルイ14世は、自分の葬儀で、黄金の棺を用意し、大きなろうそくで照らしました。教会なのに、十字架も、受難の絵でもなく、自分の棺を照らしてまで、自己を示したかったのです。
その葬儀で事件が起きました。それまで司式にあたっていた祭司は、黄金の棺を照らすロウソクの前に出ます、そして突然ロウソクの火を吹き消しました。大聖堂は暗闇に包まれます、その中で祭司は宣言して叫びました、『ただ神のみが偉大なるかな!』そして次第に暗闇に目の慣れていった人々の目には、再び十字架やキリストの生涯を描いた絵が映ったそうです。
自分の王座にしがみついている限り、王冠を頭に押さえつけている限り、神を愛することと、人を愛することはできません。キリストは真逆でした。私達を愛しぬくためにすべてを捨てられた。(ピリピ2:6~8)
私達が拝むのはこれほどまでに自由な方です。
すべてのことを自分でコントロールしたい、自分の思い通りにしたい、そんな私達は、何かを拝むと聞くと不自由に感じます。しかし、6節の「治める」は「羊を飼う・食事を備える」の意味です。「諸人こぞりて」、の英語の歌詞のように(He rules the world with grace and truth)、剣と恐怖でなく、恵みと真理で支配する。キリストは言いました。「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」ヨハネ10章10節
神があなたを縛るのでなく、神があなたに縛られてくださった。私達が神に献身するのでなく、神が私達に、その身も、命も捧げてくださった。これがクリスマスです。
<宝から自由になり、宝を生かす>
博士はささげ物をします。黄金は王であるしるし。乳香は神であるしるし。没薬は十字架の死のしるし、とされます。ただ、大切なのは「宝の箱を開けて」、とあることです。彼らは、宝を握りしめず、捧げたのです。
 宝は良いものです。人も自分も幸せにできる。しかし時にそれらは、私たちを不自由にしてしまう。だから、握りしめないでそっと手の上に乗せるようにして持つことが肝心です、そしていつでも神様が教えてくださる良い目的のために使う。博士たちの場合はそれが、幼子に捧げることでした。この後、貧しいイエスの一家はエジプトへの逃亡生活を強いられます。それを可能にしたのが、博士たちのささげた宝でした。これがなければ、キリストの教えも、キリストの十字架もなかった。博士たちの宝が、今私達につながっているのです。
私達の宝は神から与えられたもの、預けられたものです。あなたの力も、富も、立場も、時間も、握りしめずそっと手に乗せるようにして、神様に聞きながら使ってください。神様が正しい使い方を教えてくれるから。必ず人を生かすために用いる。
 博士以上に非常識で、博士以上に犠牲を払い、博士以上に低くなったのが、私達の神なのですから。そして、宝どころか、命まで手放したのがキリストです。
祖母の連れられ初めて参加した礼拝、前に十字架にかけられたキリストがあり、皆がひざまずいて祈っていました。立派な王でも、豪華な祭壇でもない、痛めつけられ、十字架につけられ、最も低くされた方を拝む。そこに、本当の自由と、喜びと、救いとがあるのです。
デザート、室内の画像のようです
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おざく台キリスト教会としてコメント

クリスマス礼拝 12月19日(日)10時半~
クリスマスイブ礼拝 12月24日(金)10時~&18時半~
教会堂(大人15名程度)、ZOOM、携帯無料通話、などを利用して、参加が出来ます。
お問い合わせは 07055716102 または big-small@willcom.com までお願いいたします。
おざく台教会毎日の聖書 12月13日~
アドベント(待降節)に入りました。クリスマスの箇所をゆっくりと読み黙想してみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。
12月13日(月)ルカ2章8~12節
11節「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」
「神様を信じているのに、神様は私に何も与えてくれない・・・」そう思ってはいませんか?天使が告げた「きょう」、とは2千年前のことです。神様は、すでに、わたし達にイエス・キリストを与えてくださいました。何より尊い贈り物をわたし達にくださったのです。
 あなたはそのキリストを通して、どんな恵みを受け取りましたか?ゆっくり数えてみてください。そして思い返してください。あなたは、すでに、受け、愛され、祝福されていることを。
12月14日(火)ルカ2章13~14節
14節「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
あなたの心には平安が、あなたの周囲には平和がありますか?
キリスト教国同士の戦争が長引き、クリスマスの日になりました。向かい合う陣地から讃美歌が歌われ、互いに合唱となり、その日は戦闘が行われなかったというエピソードを聞きました。
平和とは、誰かにもらうのではなく、神がわたし達の内側にすでにその種を蒔いてくださったのです。神を見上げる心から、平安が、平和が始まるのです。
 「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ5:9)
今日一日、あなたの内に平安が満ち、その平和が周囲へも溢れ流れますように。
12月15日(水)ルカ2章15~20節
15節「御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。『さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。』」
羊飼いは天使からの知らせを無視することも可能でした。けれど、ベツレヘムへ急いだのです。そして、幼子キリストを、ついにうまれた救い主を「捜し当てた」(16節)のです。そして、周囲の人々に「この幼子について告げられたことを知らせた。」(17節)のです。(仕事柄宗教的な規則を十分に守れない羊飼いの証言は、当時信用されなかったのにも関わらずです。)
わたし達もまた、救い主誕生の知らせを受け取った、と言う意味でこの羊飼い達と同じです。受け取った神様の語りかけに、どのように応える一日としましょうか?
12月16日(木)ルカ2章21~35節
45節「剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現れるためです。」
神と出会うと、イエスと出会うと、私たちの心の本当の思いが現れます。
ヘロデ王のように、自分こそが神であろうとする高慢さ。宗教家や放蕩息子の兄のように、自分だけが尊ばれたいという嫉妬心。弟子たちのような、神より自分を優先し逃げ出す弱さ。金持ち青年にとっての財産のように、神でない何かを神とする偶像礼拝の心。
 けれどそれでいいのです。そこから本当の救いが、神との出会いが始まるのです。その現れた本当の思いさえも神の前に差し出して、裸で神と出会えばいいのです。
12月17日(金)ルカ2章36~40節
40節「幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちていった。神の恵みがその上にあった。」
その後には、『イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。』52節とあります。神の守りの中にありましたが、わたし達と同じく成長を必要としたのです。
立派で神々しい姿で到来することも、すでに成長した成人の姿で地上に降りてくることも出来たでしょう。けれど、神は、力無き、誰かの手を借りなくては生きられないような幼子の姿でわたし達のところに来ることを選ばれました。そして、わたし達と同じく、毎日の苦労も、離別の悲しみも、体験されたのです。
 そしてその公生涯は、誤解と、攻撃と、裏切りと、恥と、痛みが溢れていました。わたし達の神様は、わたし達の悲しみや苦しみを、身をもってご存知で、肩を抱いて寄り添うことの出来る方なのです。
12月18日(土)ヨハネ1章1節
1節「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」
ヨハネ福音書では、クリスマスの具体的な出来事は語られませんが、クリスマスに生まれた幼子が、実は誰であったかを詩的に表現しています。その方は、はじめからあり、神とともにあり、神ご自身でもありました。
 そのことばが、クリスマスに、私たちの世界に来たのです。この幼子の存在は、まさに神の言葉、神からのメッセージそのものでした。
この人を見よ、この人に信頼せよ、この人にすべてを打ち明けよ、この人の御跡に従え、聖書はキリストへとあなたを招きます。
 あなたは、神様からのメッセージそのものであるイエス・キリストを、今日一日どのように受け止めますか?
12月19日(日)ヨハネ1章2~3章
3節「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」
 あなたは、あなたの周囲の人は、神によって心を込めて造られた存在です。神様や信仰に無関心な人もいるでしょう。罪や悪に心を向けている人もいるでしょう。けれど、神様が創造し他の出ない人は、神様が愛していない人は、神様に無関係な人は、実は一人もいないのです。
 今日、周囲の人が神様と出会えるように、特に神様から遠そう、とあなたが思っている(思い込んでいる?)ひとのために、とりなして祈ってみてください。

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