12月5日のメッセージ

shinyaku11

 

2021年12月5日おざく台キリスト教会メッセージ

 

<ルカの福音書>2:4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、 2:5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。 2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、 2:7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

 

<拒絶されたキリスト>

幼稚園でもクリスマス劇の準備に大忙しです。こどもが演じると可愛いですが、出産直前の妊婦が100キロを超える旅をさせられ、やっとたどり着いた町では宿泊先を用意してもらえず、馬小屋で出産するという、ものすごいお話。クリスマスとは、拒絶がテーマでもあるのです。

 

2:6~7 劇では「トントントン宿屋さん。どうか一晩泊めてください。どこのお部屋もいっぱいですよ。」「困った困ったどうしよう。」「向こうの宿屋に行ってください♪」という歌があるのですが・・・

よく読むと宿が満員とは一言も書いてない・・・宿屋には彼らのための場所がなかった、とあるのです。

 

7節を直訳すると「彼らのための居場所(ギトポス)は客間(ギカリューマ)にはなかったからである」となります。カリューマいう言葉は聖書に3回出てきますが他の2回は客間と訳されます。当時は知人や親族の家が宿替わりなのです。ところが、ゆかりのある土地で、親族も知人も多いはずが、誰も出産間近の若い夫婦を招き入れないのです。

マリアは結婚前に妊娠した罪深い女と誤解され、マリアと結婚したヨセフも合わせ、不品行をした罪深い汚れた人として、「そんな汚れた人間を受け入れられない!!あなたはうちに入るのにふさわしくない!」と拒絶されたのです。(実際、宗教家が、イエスを「私たちは(あなたと違って)不品行によって生まれた者ではありません。」ヨハネ8:41と揶揄する場面があります。)結果、誰からも受け入れられず、居場所がなく、家畜小屋(おそらく洞窟)に滞在し出産、馬の餌箱が、ベビーベッドとなりました。

 

<受容で応えたキリスト>

少し、考えてみたいのですが、神様はこの出来事をどう見ていたのでしょう?イエス様は、人となった神様は、家の戸を閉ざし、馬小屋の飼い葉おけへと自分を追いやった人々をどう感じていたのでしょうか?この箇所で「飼い葉おけ」と3回も繰り返されますが、飼い葉おけは十字架へとつながる、人からの拒絶の象徴です。キリストの生涯は、誤解と拒絶の連続でした。裏切られ、誹謗中傷され、最後は・・・恥や痛みの象徴である十字架にかかったのです。このクリスマスの箇所でキリストは一言も話しません。しかし、最後の最後、十字架の上でイエスは人々からの拒絶に応えるのです。

 

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:24)生まれた時から拒まれ、生涯において拒まれ、最後は十字架で拒まれる。けれど、神様は、キリストは私達を拒みません。私達を神の子としようと、天の故郷、父の家に入れようと、手を指し伸ばし続けます。キリストは十字架にかかる前の夜に自分の死を指してこう言いました「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。・・・あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。」(ヨハネ14:2直訳「あなたがたのための場所を備えに行く。)私達がキリストのために場所を用意しませんでしたが、神は私達のための居場所を天に用意してくださった。拒絶に対して、受容で応えてくださった。

 

そして、社会から見下され、拒絶されていた羊飼いたちは、拒絶の象徴のような飼い葉おけの前で、キリストに出会いました。人々から拒絶され、十字架につけられた強盗は、その十字架の上で、救い主に受け入れられました。神様が受け入れてくださらない人は一人もいないのです。

 

最初のクリスマス、ベツレヘムの家々の戸をたたいて以来、キリストは私達の戸をたたき続けています。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」黙示録3:20。

ある幼稚園のクリスマス劇でこんなことがありました。宿屋役のこどもが「向こうの宿屋に行ってください。」とセリフを言った後、隣の宿屋に向かうヨセフとマリアに泣いて叫んだそうです。「イエス様行かないで。僕のところに入って。」この子は、本当は幼子が誰か知っていたから劇の中でも拒めなかった・・・私達もこの幼子が誰か知っています。わたし達はどう応えましょうか?

 

 

<おまけのお話し>

当時のベツレヘムの人々にとっては、社会的にも、宗教的にも、この夫婦を拒むことは「正しい」選択でした。けれどそれが、夫婦を、幼子を、そして救い主を拒絶することにつながったのです。

わたし達は「正しい」選択を求められます。けれどその「正しさ」ゆえに、ある人や物事を拒むことで、神のこころを拒絶してしまうこともまたあるのです。私たちの「正しさ」や常識と神のこころには、時にずれがあるのです。

わたし達にはこの領域だけは「正しさ」を譲れない、という領域が誰しもあります。その私達の「正しさ」は人間的にも社会的にも、決して間違いでないでしょう。ただ、神様の計画が奇抜すぎるのであり、神様の憐れみが深すぎるのです。(神様には困ってしまいますね。)

だから、頭の片隅でこのお話を覚えておきたいのです。そうすれば、同じ「正しい」選択であっても、わたし達の姿勢や対応が変わってくるのではないでしょうか。

 

劇では「馬小屋ならば空いてます」と言ってくれる宿屋がいます。もしも、劇のような村人が実際にいたとすれば、その人は客間には受け入れられなくても、少し離れた馬小屋に、受け入れた。そこで救い主が生まれた。私達もそのような道を選べたらと思います。

 

損をするかもしれません。煮え切らない思いもあるでしょう。相手も多分変わらないでしょう。けれど、あなたはキリストを、神の心を、少しでも近くに受けれたのです。そのことを通して、あなたの内にキリストが生まれるのです。あなたにキリストの性質が形作られるのです。それもまた神様の大切なみこころです。

 

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。」(ローマ8:28~29)

 

ここでいう益とは、ただの利益ではないようです。本当の益とは、わたし達が変えられること、わたし達のうちにキリストが生まれていくこと、それが神様の不思議な愛のご計画なのです。

 

先日こんな素敵な言葉を聞きました。「毎日がクリスマス。今日もあなたにキリストが生まれる。」そんな毎日を歩めるといいですね。困難な時期がクリスマスと重なる、これも神様の憐れみなのかもしれません。

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