11月28日のメッセージ「アドベント①~マリア~」

2021年11月28日「クリスマス①~あなたへの受胎告知~」

 

1:30 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。 1:31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。 1:32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。 1:33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」 1:34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」1:35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。 ・・・1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。」1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」

 

<アドベントの意味>

今日からアドベント・待降節です。アドベントには2つの意味があります。神が幼子イエスとして2000年前にベツレヘムの馬小屋に来てくれたことへの感謝、そして、神が再び来てくれることを待ち望む。私たちの世界に、私たちの日々にやってきて、関わってくだることを、信じ、期待し、祈る時期。

ところが、私達は自分自身のことを、神様が関るには値しない・・・・つまらない存在、意味のない存在、役に立たない存在、何もできない存在・・・そう考えてはいないでしょうか?

 

<特別でなかったマリア>
本来、王様の話や救世主の話は、じつは王家の血を引いていたとか、生まれながらに天才的な才能や魔法の力を秘めていた・・と相場が決まっています。けれどマリアは違います。むしろその反対です。

特別な家柄でもない。住んでいるのは、エルサレムから100キロ以上離れた田舎。社会的にも宗教的にも見下されていた地方の村です。おそらくは14~15歳ぐらいの普通の娘さん。美貌や才能があったわけでもない。何一つ特別なことはない、底辺の、片隅の、誰の目にもとまらない存在でした。

そんなマリアに天使が訪れて、処女降誕(処女懐胎)を告げるのです。

 

もっと、王妃とか、祭司の妻を選ぶことも出来たでしょう。けれど、何もない女性が選ばれた。神が愛されない者や、神が関って下さらない者は一人もいない、のです。

また、このような人と関わらなくても、立派な成人の姿で、天から降りてきたほうが人々は歓迎したでしょう。けれど、神様は貧しい女性を必要とされた。神は人を、私達を必要とし、関わることを選ばれたのです。

「この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。」(第一コリント1:28)

 

<小さきものから広がる恵み>

マリアは、ただちょっとした良いことのお手伝いのために選ばれたのではない。すべての人の救いのためです。処女降誕を疑う人もいたでしょう。けれど、ユダヤ人にとって、もっともっと信じがたいことがありました。 マリアから生まれてくる子は、大工や漁師になるわけではないのです。生まれてくる子は、神の子・救い主だというのです。(ルカ1:32~25)

天使は、マリアはただ奇跡的な妊娠を告げたわけではないのです。神の子が、あなたの内側に宿ると告げたのです。名もなき女性に、自他ともに認める価値なきあなたに宿ってくださり、そこから救いが始まっていくと、告げたのです。そして、マリアはその神様の不思議な計画を信じたのです。

 

<私達への受胎告知>

このマリアの姿は私達の姿でもあります。天使ではないですが、神様から遣わされた人を通して、キリストについて聞きました。あなたのうちにキリストが宿りますよ、と告げられたのです。

クリスマスのメッセージは、ただ神や聖書を信じましょうという程度のものではありません。あなたは決して価値のない存在ではありませんよ、神があなたの内に住もうとしていますよ、神があなたを通して恵みと救いを周囲に届けようとしていますよ、というメッセージなのです。(自分の愚かさや、醜さを知っている私達にとっては、他の何を信じることよりも難しいかもしれません。)

 

「そこで、マリヤは御使いに言った。『どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。』」(1:34)私達もマリアのように答えるかもしれません。「どうしてそのようなことになりえましょう。」私は誰からも期待されていませんのに。私は過去に大きな失敗があり、今も問題を抱えていますのに。私には力も魅力もありませんのに。罪や醜さや無気力さが心を占めていますのに・・・
そんな私達を神が愛し共にいてくださるなんて、そんな私達がキリストの恵みを表すなんて、処女懐胎よりも信じがたい、そう思うかもしれません。

 

<神に不可能はないから>

けれど、天使は、36節で、親類のエリベツの超高齢妊娠を例に挙げ告げます。1:35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。 ・・・1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。」

エリザベツが自分の力ではもう命を生み出せない状態だったのにそのお腹にいのちが与えられたように・・・マリア自身の素晴らしさや努力で救い主が生まれるのではなく、神様の力が覆うのだよ、と言うのです。

 

私達もそうです。私達の魅力や力で、恵みと救いが広がるのでなく、神様の力によるのです。あの使徒パウロですら言っています。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2章20節)

信仰とはキリストを受け入れることです。十字架に表される神と愛と赦しを、そして、キリストが私達の内に住み愛と救いを広げてくださることを、信じ受け止めることです。

この天使の語りかけは、マリアへ、そして、私達へもまた向けられています。キリストは言われました。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」黙示録3:20

 

最も悲惨な人とは、神から「あなたの心の通りになりますように。」と言われる人であり、

最も幸いな人とは、神に「あなたの心の通りになりますように。」と言う人です。

 

本当に謙遜な人とは、自己卑下したり、自分に期待しない人ではなく、神の心を受け入れる人です。マリアは応えました。「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」私達はどう応えましょうか?

あなたは神が関りたいと願っておられる、大切な、尊い人です。

 

<今週の黙想>朝毎に、聖書を読み、「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と応えてから、一日を始めてみてください。

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