11月7日のメッセージ

2021年11月7日「困難の時に知っておきたい聖書38~召天者記念~」

<聖書 へブル書>
12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。12:2信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

<ファミリータイム マタイの福音書>
14:29 イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。14:30 ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。 14:31 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」

<私達を沈みこませるもの>
今日はファミリータイムで、水の上を歩いたイエス様とペテロのお話をしました。イエス様を見つめているとき、ペテロは水の上を歩くことができた。けれど、イエス様から目をそらし、風へと目が奪われたとたんに、心は恐れに支配され、沈み始めた。どこか私達の人生と通じるものがあります。

あなたは何を見て恐れますか?何によってイエス様から目をそらされますか?何によって心が魂が、恐れ、恨み、妬みといった罪の海の中に沈みだすでしょうか?
目の前の困難や問題、あなたを悩ませる人物、誰かの言葉、病や乏しさ、それともやがて必ず訪れる死でしょうか?

今日は召天者記念の意味も込めて、礼拝をしています。キリスト教では古代から、殉教者・召天者を覚える習慣がありました。パウロはへブル11章では、信仰の先人たちを一人一人挙げ、生きている者たちの信仰を励まします。また、初代教会では迫害によって火あぶりにされても、闘技場で猛獣の餌食とされても、どれだけ不自由や苦しみの中でもキリストに希望を置き続けた人々がいて、教会は彼らを記念しました。
また、今日は、礼拝の最初で名前を挙げさせていただいたお一人お一人からも、その生涯を通してキリストに出会っていた姿、不自由さや苦しみの中でもキリストを手放さなかった姿などを思い起こしています。

私達はペテロのように、風を見て恐れることもあるでしょう。だからこそ、召天者を、キリストを見つめ続けた人たちを覚える日を通して、慰めと励ましを受けるのです。

<私達への慰め>
教会は、恐れや不安や悲しみが全くない人のための場所ではありません。むしろ、安心して、恐れ、悲しむことの出来る場所です。最初の教会も、共に恐れ、共に悲しみました。

「親しい」という漢字があります。(親は木の上に立って見守る、と金八先生なら言いそうですが・・・)
昔は誰かがなくなるたびに、木に傷を刻み、それをお墓や位牌の代わりとしたそうです。「親」という漢字の左側は、辛いという意味も持ち、お墓に代表される、悲しみや痛みを表します。それを見る、つまり、その人の死や悲しみを見て痛みを覚える、あるいはそれを一緒に見て悲しみを共有する、そんな意味が「親」や「親しい」、「親族」にはあるそうです。
ですから、かつての教会も、迫害の中で、その親しさゆえに、私達と同じように、恐れ、悲しみ、痛みました。希望を失いそうなほどに・・・そんな教会にパウロは慰めとなる言葉を語ります。

4:13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。4:14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。・・・4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。4:18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。」      第一テサロニケ4章13~18節
(先週の洗礼式のお話の繰り返しになりますが)、キリストに結ばれた者は、キリストが死によみがえったように必ずよみがえる。彼らは死では終わらない。私達も、彼らも、今も、これからも神と共にいる。と言うのです。

迫害の時代だけでなく、人の死や、人の苦しみを見て、私達は湖に沈んだペテロのように、悲しみや恐れの中に沈みこみます。けれど、「イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで」(マタイ14:31)助け出されたように、私達にもこの慰めの言葉という手をもって、恐れや恨みの海から引き上げてくださるのです。

歴史の中で、教会には2種類の教会があると考えられてきました。それは、天の教会と地上の教会です。教会とは、建物のことではなく、神様と出会った人の集まりを指しますから、地上の歩みを終え神様のもとに召されている人達と、地上で日々を歩んでいる私達を指します。(頌栄269番)
彼ら一人一人を見れば、その生涯にたくさんの苦労や悲しみがあったでしょう。信仰ゆえに誠実に歩もうとすれば、痛みや苦しみはさらに増し加わることもあります。しかし、それらは決して無駄でなかった。神様が今天において共にあり、豊かに報いてくださっている、やがて私達も彼らと一緒に、神様と共にいることになる。それが聖書が教えてくれる慰めです。

<私達への励まし>
へブル11章には、「信仰によって」という言葉が20回以上出てきますが、他にも、見るとか、目を、という言葉が多く出てきます。信仰と、私達が何に目を向けているかとは、深い関係があるのです。
11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
11:26彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。
11:27 信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。
信仰の先人たちは、迫害の中で、苦しみの中で、乏しさの中で、目の前の問題ではなく、神を、キリストを見つめ続けたのです。

そして今日の聖書の箇所へと続きます。
12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

これは古代の競技場のイメージだとされます。競技をしているのは私達。取り巻いてとは、声援を送る観衆のことであり、その中にはモーセであり、ダビデであり、ペテロであり、信仰の先人たち、召天者達がいます。彼らが、がんばれ、諦めるな、イエスから目を離すな、と大声で応援している。そんなイメージでしょうか。

私は、聖書の人物たちや、キリスト教史の人物たちの信仰にも励まされますが、自分が今まで出会ってきたお一人お一人の信仰にも励まされます。
健康が十分でないのに、礼拝を喜びとし、日曜に向けて丁寧に体調を整え笑顔で教会に来ていた方。帰りには教会のチラシを持ち、自分によくしてくださったイエス様を知ってほしいと、ポスティングしながら帰っていました。
その生涯で、多くの苦労を一人で背負った方。それでも神を呪うのでなく、神様に感謝しつつ生涯を閉じていかれた。
他にもあげればきりがないですが、その一人一人の姿が、目の前の困難やご自身の痛みではなく、キリストを見つめ続けたあり方が、へブル11章のように、わたしの心に迫ってきます。
もちろん、彼らはイエス様ではないので、完ぺきではなく、むしろ弱さも抱えていたでしょう。しかし、小さくとも輝く信仰があり、彼らの在り方が、生き方が、私達に証しているのです。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(へブル12:1)」と。
どのような困難でも神に目を向け続けた方は、死からいのちへとよみがえられた方は、私達の手を取り、悲しみや、妬みや、恨みの中から、そしてやがての死からも、引き上げてくださるのですから

<今週の黙想>へブル11章をゆっくりと読み、12章1~2節に思いを巡らせてみてください。

 

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