10月10日のメッセージ

 

 

 

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2021年10月10日「困難な時に知っておきたい聖書36~選び選ばれる関係~」

 

 

 

<聖書 ヨシュア記>

 

24:14 今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。

 

24:15 もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」

 

 

 

<自分自身が問われる>

 

今日読んだ箇所は、モーセの後を継いだヨシュアの遺言、告別説教です。エジプトの奴隷生活から解放された人々は、約束の地カナンへの旅をし、40年間の荒野の後、カナンの地を得ました。今後は、それぞれの部族ごとに分かれて定住することになります。

 

今まではカリスマ指導者モーセ、そして跡継ぎのヨシュアがいた。ある意味、指導者に耳を傾けていればよかった。けれど、これからはそれぞれの場所で、それぞれの部族ごとに生きていかなければならない。自分たちの在り方、生き方が今まで以上に問われるのです。

 

 

 

この状況は、私達とも少し似ています。日曜日はみなで会い、励まし合うことができる。新しい週を歩む元気と勇気がもらえます。そして午後からはそれぞれの場に、生活、職場、家庭、学校に出ていき、ある意味で一人で(もちろん神様と共に)歩む。かつて礼拝学の授業でこんな言葉を習いました。「日曜に教会に行くのではありません。日曜に、礼拝堂に教会が(つまり私達が)やってくるのです。」そして、その教会は、それぞれの場に遣わされていくのです。日曜日や、水曜日などに体験する横の関係はとても大きな支えとなります。同時に日々の神様との縦の関係が、私達には問われてくるのです。特に危機の時には。

 

 

 

<散らされた時こそ>

 

また、コロナで会堂の人数は制限され、オンライン併用となりました。ZOOMで顔と顔を合わせられるのは嬉しいことですが、なかなか以前のような密集した礼拝はできません。コロナ以降、今まで以上に、個々の歩みが問われるようになったのです。

 

 

 

コロナだけではありません。体調が崩れたり、仕事や家庭の事情で引っ越しだってあります。永遠にこの教会で皆さんと過ごしたいと願いますが、それはかないません。状況によっては文字通り一人になることもあります。(だからこそ、やがての天での再会が希望なのです。)

 

 

 

先日、羽村の施設にいるSさんと、LINEで面会しました。体調を崩し、今までの生活が変わってしまった。痛みと戦い、今も車いす生活で、身体も決して楽ではない。そして、礼拝にも参加できない。

 

けれど、笑顔が輝いていました。LINEごしに、一人一人を気遣ってくださり、今朝は聖書で〇〇の箇所を読んでね、こんな風に教えられたんだよ、と話してくださった。今までの状況のほうが良いに決まっています。けれど、神様と共に、新しい状況で懸命に生きておられた。イエス様がしっかりと支えてくださっていた。Sさんと話す施設の方もとても明るかった。頭が下がる思いがしました。

 

 

 

神様は時に集め、時には散らす神様です。地を満たせ、地を従えよ(創世記1:28)、と言われる方です。神への反抗を表すバベルの塔では、人々は散らされないようにと塔を建てたのです(創世記11:4)。教会は迫害の中で散らされましたが、その先でイエス様の祝福が広がっていった。散らされるのは、離れるのは、寂しい。けれど同時に、それは祝福が広がっていく道でもあるのです。

 

 

 

<選択する>

 

いつか私たちも似たような状況を経験するかもしれません。災害や疫病もまた起こるでしょう。今日のヨシュアの言葉は身に沁みます。ヨシュアは言うのです。どの神に仕えるかあなた自身で選びなさいと。

 

 

 

イスラエルは遊牧民族から、カナンの地に定住した後は、農耕民族に代わります。そうすると、天候が死活問題になります。そして、カナンの地には天候と快楽をつかさどる神バアルをはじめ、魅力的な神々がいました。新しい状況では、そういった神々に、本当の神様以外の何かに頼りたくなるものです。

 

けれど、「誠実と真実をもって」つまり変わらない愛で神を愛しなさいというのです。神様は人をロボットのようには造りませんでした。自由意志を与え、私たち自身に選ばせてくれるのです。いのちを選べと呼びかけるのです。「私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」(申命記30:19)

 

 

 

ある修道院では、神に仕える修道士にロッカーが与えられます。そして、それまで自分が来ていた服をそのロッカーにかけておくのです。朝起きて、着替えようとする度に、修道士は、ロッカーの中に、修道服と、かつての服とを見ます。そして、日々修道服に手を伸ばす選択をするのです。

 

日々、瞬間瞬間、私たちは神を愛することを選んでいくのです。

 

 

 

<見放さない方>

 

同時に私たちは自分自身が真実でないことを、変わりやすい愛であることを知っています。神を選べなかった時は、本当の神様でなく偽りの神々を、いのちでなく死を、祝福でなく呪いを選んでしまうとき、どうなるのでしょうか?

 

19~20節を見ると、「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、ねたむ神である。あなたがたのそむきも、罪も赦さないからである。もしあなたがたが主を捨てて、外国の神々に仕えるなら、あなたがたをしあわせにして後も、主はもう一度あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。」とある。神様が罰を与えるというよりは、神を離れ、偶像を拝み、堕落し、やがて他国に滅ぼされる悲劇を言っています。神様は嘆きつつも、自由と選択を尊重しなくてはならない。イスラエルは神を拒み、堕落し、アッシリアやバビロニアにより滅亡するのです。結婚にもたとえられる、神への愛を貫けず、神の手を拒み、滅んでいったのです。

 

 

 

けれど、神様はあきらめきれない。ホセア書には妻が何度違う男性のところに走っても、愛しぬく夫として神が描かれています。「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。」(第二テモテ2:13)神に愛は変わらないのです。そして、滅んだように見えた民族は、神様の手によってまた息を吹き返していきました。

 

私達も同じです。イエスを信じ、洗礼を受け、神との愛を誓ったなら、神のほうが「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(へブル13:5)とあなたを離してはくれないのです。

 

 

 

ある牧師のところに、洗礼を受けた人が、しばらく実家に帰った後で、申し訳なさそうにやってきてこう言いました。「申し訳ありませんが、家の事情で仏教徒に戻ることにしました。お墓も守らなくてはいけません。牧師様には感謝していますが、退会させてください。洗礼を取り消してください。」牧師さんは答えたそうです。「わかりました。教会員情報を消します。今後教会からお便りが行くこともありません。ただ大変申し訳ないのですが、洗礼は取り消せません。取り消す儀式や祈り、方法がないのです。」

 

一度神様を選んだのなら、神様は私達を選び続けてくださる。その愛に感動し、私達も神様を愛することを日々選ぶのです。

 

 

 

<あなたが選んだ神、あなたを選んだ神>

 

神様を選ぶことに自信がない人は、まず先に神様があなたを選んでくださった、あなたを望み、あなたを愛してくださったことを忘れないでください。

 

イエス様は、最後の晩餐で「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び」ヨハネ15:16と言いました。私達が神を選んだのでようで、じつは神が私達を選んでいたのです。

 

今日のヨシュア記の14~15節では、神を選ぶようにチャレンジされます。しかし、その前の箇所、1~13節まではまずはじめに、神がイスラエルを選び、救い、守り、導いてくださっていたことが記されています。

 

ヨシュアの言ったとは、神の名を表す太字の主(ヤハウェ)とは、あなたを選び愛し、これからも愛しぬく神、という意味が込められているのです。神の愛と選びはいつも先行しているのです。私達が選ぶのは、神への応答です。愛への、感謝をもって、神を選ぶのです。

 

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」第一ヨハネ4:10

 

 

 

天の門には、「狭き門から入りなさい」(マタイ7:13)と書いてある。けれど、その門をくぐると、裏側には「あなたは選ばれた」と書いてある。神が愛をもって先に選んでくださったのです。

 

それは、選民思想や、高慢にはつながりません。ウェスレーは、愛することへの選びと言いました。イエス様は「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び」のあと、「あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、」と続けます。神の子として選ばれ、愛し仕えるものとして選ばれたのです。

 

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