毎日の聖書(9月13日~19日)

おざく台教会毎日の聖書 9月13日~

1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

9月13日(月)民数記11章

6節「だが今や、私たちののどは干からびてしまった。何もなくて、このマナを見るだけだ。」

荒野で与えられた恵みであるマナ。最初は喜んだ民ですが、すぐに感謝を忘れ、別のものを要求し、神を悲しませ、怒らせました。今あなたはこの民のように、恵みを忘れ不満の中にいませんか?もしそうだとしたら、すでに与えられている恵みに目を向け、一つ一つ丁寧に数え、一つ一つの恵みに感謝の祈りを捧げてみませんか?

 

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」詩編103篇節

 

 

9月14日(火)民数記12章

1節「そのとき、ミリヤムはアロンといっしょに、モーセがめとっていたクシュ人の女のことで彼を非難した。モーセがクシュ人の女をめとっていたからである。」

一見正当そうなミリヤムとアロンのモーセに対する非難。しかし、その背後には2節にあるようにモーセへの嫉妬心がありました。あなたの周囲に、あなたを不自然に非難する人はいますか?もちろん相手の意見に真摯に耳を傾けることも大切ですが、その人の隠された動機(過去の傷や本人の弱さ)にも目を向けてみてください。そして、そのような人の言葉に過度に影響されすぎず、神様はあなたをどう見ておられるか、静まって聞いてみてください。

また、私たちが人を非難したくなるとき、非難する前に自分の動機を疑ってみてください。

 

「私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」詩編139篇24節

 

 

9月15日(水)民数記13章

30節「そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。『私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。』」

他の10人は、約束の地に住む人々の身体の大きさに恐れ、心くじけました。しかし、ヨシュアとカレブだけは、神に信頼しました。

目の前の現実にしっかりと目を向けることはもちろん大切です。しかし、もしそれが神によって言われたことなら、恐れ、くじける必要はありません。神が言われたのですから、神が責任を取ってくださいます。私達は応答するのみです。あなたが恐れ、くじけているものは何でしょうか?

 

「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」ヨシュア1章9節

 

 

9月16日(木)民数記14章

2節「イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。」

児童文学の名著「ナルニア国物語」の著者で、キリスト教の本も多く記したC・S・ルイスは言いました。「人間には二つの種類がいる。一方の人間は、神に信頼してこう言う。『あなたの御心が行われますように』。もう一方の人間は、神からこう言われる『あなた(人間)の心が行われますように』」

実際、民の多くはその願いの通り、約束の地に入る前に荒野で死んだのです(29-30節)。私たちが自分の罪や弱さから出た言葉ではなく、神の確かな言葉に導かれますように。

 

「あなたのみこころを行うことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように。」詩編143篇10節

 

 

9月17日(金)民数記15章

3節「主へのなだめのかおりをささげるために」

なだめの・・ということは、いけにえは目に見える神殿(幕屋)に向けてではなく、神の心に向けてささげるのです。神は食物で人間に養ってもらいたいのではなく、私たちの心を求めているのです。

もし私たちの内側に心や信仰が欠けていたら、秒面的な行為は喜ばれません。あなたの心を、神の心へ向かってささげる・・あなたにとってはどういうことですか?今日一日を神への捧げものとして過ごしてみてください。(ローマ12章1~2節)

 

「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」詩編51篇17節

 

 

9月18(土)民数記16章

41節「その翌日、イスラエル人の全会衆は、モーセとアロンに向かってつぶやいて」

信仰をおかしくするのは簡単です。神より自分を大きくするのです。神の御心より、自分達の感情や欲求を主張し優先させるのです。

信仰者にとって大切なのは、神を信頼することと、自分を疑うことです。「自分は本当に大丈夫?」こう疑えるのが、本当の信仰者です。イエス様は魂の病人のために、罪びとのために、来てくださったのですから。

 

 

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人ですわたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」ルカ5章31~32節

 

 

9月19日(日)民数記17章

8節「アロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいた。」

新しい枝は水に入れると芽をふきます。アロンの杖は古かったはずなのに、芽だけでなく、つぼみを出し、花をつけ、実を結びました。それは、神の選びによる奇跡です。私たちも、神に選ばれました。弱さや欠けだらけでも、神の力で良い実を結ぶのです。どうか神が選んでくださった自分をあきらめないでください。

 

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、」ヨハネ15章16節

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