9月12日のメッセージ

2021年9月12日「困難の時に知っておきたい聖書32~本当の闘い~」

 

<聖書 イザヤ書>

41:10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。・・・41:13 あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから。

 

<ファミリータイム ヨシュア記>

1:5わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない。1:6 強く、また雄々しくあれ。あなたはこの民に、わたしが彼らに与えると、その先祖たちに誓った地を獲させなければならない。1:7 ただ強く、また雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法をことごとく守って行ない、これを離れて右にも左にも曲がってはならない。それはすべてあなたが行くところで、勝利を得るためである。1:8 この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行なわなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。1:9 わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない。

 

<恐れの中で>

今年に入り、出エジプトの旅の箇所から、メッセージをしていました。コロナという未体験の状況の中で、私たちは、個人としても、教会としても、慣れ親しんだ状況を離れ、荒野を旅するかのような日々を過ごしてきたからです。

一方ワクチン接種や対抗薬の開発も進み、やがてはポストコロナの新しい状況へと次第に向かっていきます。荒野の40年を終え、戦いの待ち受ける約束の地に入り生きていくイスラエル人も感じたと思いますが、新しい状況に向き合うのは、嬉しい反面、いつも恐れが伴います。(現状維持のほうが時にずっと楽なのです。)そこで、約束の地に入り、歩んでいったヨシュア記以降を取り扱います。

 

<恐れの危険>

ここ最近、何かを恐れていますか?何かにおののき踏み出せないでいることはありますか?(『あなたが恐れることの90%は実現しない。』という本を読んだことがあります。確かに恐れすぎ、心配しすぎはよくありませんマタイ6:25~34。一方で状況を見極め、リスクを把握し、正しく恐れることはとても大切です。ルカ14:31~32)

今日の、ヨシュア記の最初で、神は『恐れるな』と『強く、雄々しくあれ』とヨシュアに繰り返しました。ヨシュアは恐れていたのです。

彼は勇敢な人でした(民数記13:30)。けれど、恐れる理由ならたくさんあります。約束の地で待ち受ける敵は強大です。荒野での40年を経て心身の衰えもあったかもしれません。カリスマリーダーであるモーセの後を継ぎ、多くの民を導く責任は重大です。恐れて当然です。

 

それなのに神様は、恐れるな、おののくな、強くあれと繰り返すのです。神様は、無鉄砲であれ、無計画であれ、と言っているのではない。神様が恐れるなと口を酸っぱくして言うのは、恐れが危険だからです。神でなく恐れに導かれる危険が(約束の地にひるんだ10人のスパイのように・・・申命記13:31)、神でなく方法や物など別の何かに頼ってしまう(エジプトに頼ったイスラエルのように・・・イザヤ31:1)危険が、あるからです。

 

<本当の闘い>

先日も紹介した『聖書が解る10の扉』という本、その『闘い』という単元に参考になる話が載っていました。

旧約聖書には実際の戦争の場面も多くでてきます。新約聖書との違いに驚く人もいるでしょう。それらは戦争を奨励しているのでも、聖戦を正当化しているのでもありません。戦いや争いを描きながら、本当の闘いはどこにあるかを語っているのです。

本にはこのようにありました。「創世記3章は、人類の最初の戦いと言えるところです。自分の創造者である神の言葉を信じるか、造られたものにすぎないヘビの知恵を信じるのか、これが人類最初の闘いであり、すべての闘いの本質です。」(P60)そして、最初の人間はこの闘いに負けたのです。

 

その直後で神は蛇に向けて宣戦布告をします。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」(創世記3章15節)

ここに戦いの本質があります。敵意は、人や人、国や国の間にはおかれていません。女の子孫である私達と、ヘビの子孫との間に、神を信頼するものと、神に背かせるものとの間に置かれているのです。

そして、私たちはどちらの側につくのか選ぶ、それが私たちの闘いであり、聖書で描かれる闘いの本質ですなのです。

「究極的な勝ち負けは、どちらの側につくかで決まります。ヘビの子孫として、神のことばに耳を貸さずに生きるなら一時的には勝つことはあっても最後は負けが決定しています。女の子孫として、神の言葉に従って生きるなら、一時的に負けることはあっても最後は勝ちが決まっています。」(P63)

 

私たちの「闘い」は一般的な勝ちを求める闘いとは違います。誰かと争い、より優位な条件や周囲の承認を獲得しようと、自分が怒りや敵意に支配され、キリストが選ばないような方法でそれをもぎ取ったなら・・・

たとえ、自分にとって有利な状況になったとしても、それはヘビの子孫の側につくことであり、私たちは神から離れ、ヘビに似ていくことになります。神の愛や哀れみでなく、人の罪の性質が大きく表される。それはもはや敗北です。(歴史の教会は悲しいことに、宗教的装いを保ちつつ、何度ヘビの側についたことでしょうか。)

 

ですから、ヨシュアの本当の敵は、カナンの人々ではなかったのです。そうではなく、恐れによって、神の言葉でなく、ヘビの知恵と方法に頼ろうとすることとの、戦いだったのです。

私たちも同じです。目の前の争いや、日常の様々な状況と向き合う中で、本質的な闘いが求められているのです。私たちは闘うのです。罪の誘惑と、自分の弱さと、過去の傷と、困難な状況と、難しい人と、恐れ逃げ出すのでもなく、ヘビの知恵と方法に頼るのでもなく、神に頼り向き合うのです。

 

私たちは、聖書を読むと感じます。あれは特別な人たちでしょ。私たちは違う・・・と。

けれど、ヨシュアも同じように感じていました。だから神様は言うのです。「わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない。」

神様はそれを示すために、モーセが葦の海を分けたように、ヨシュアを通してヨルダン川を分けて、渡らせたのです。ヘビの知恵と方法でなく、神の言葉に従い、恐れずに一歩を踏み出したその時に。

 

「私達も日々、様々な戦いの中にあります。敵を見間違えると争いになります。敵、壁、問題の大きさに目を奪われると、負けパターンにはまります。しかし、どんな戦いにあっても、何よりも誰よりも強い神様が味方であることを信じるなら勝利があります。」(P72)

 

私たちの目の前にも、大小さまざまなヨルダン川があります。神の方法で踏み出すとはどういうことでしょう?目の前の川を恐れないでください。そして、神の方法で渡ることを恐れないでください。モーセとともに、ヨシュアとともにいた神が、私たちと共にいて、見放さず、見捨てないと、右の手を硬く握り、誓ってくださるのですから。

 

<旧約のヨシュアと、新約のイエス>
ヨシュアという名は、「神は救う」、という意味です。ヨシュアの生涯はまさにその名の通りでした。ヨシュアは、一見地味ですが、彼のすばらしさでなく、神のすばらしさが、その人生の中で表された人物です。

そして、ヨシュアという名は、イェシュア、つまり、天使がつけたイエスと同じ名前です。究極的な意味で、神様が救う、神が勝つことを示すためにイエス様が来られた。

 

そして、イエス様は荒野で悪魔の誘惑に合われても、神の方法を選ばれた。山上の説教で、神の知恵と方法を諭された。人の暴力や、誘惑に負けず、神に新らして歩んだ。

そして、最後にはかつて神様が宣言したように、ヘビがかみつき、十字架でイエスを殺すのです。ヘビが勝ったかのように見えました。しかし、イエスは復活により死を打ち破った、ヘビの頭を踏み砕いたのです。(創世記3:15は十字架の救いを示した「原福音」と呼ばれる個所です。)十字架刑というヘビの勝利の先に、救いと復活という神の勝利があることを身をもって表されたのです。

 

教会に十字架があるのは、私たちがどのような不都合があろうとも、ヘビの方法でなく、神の方法を、見せかけの勝利でなく、本当の勝利のほうを選ぶという証です。

 

「私たちをキリストの愛から引き離すのは誰ですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか・・・しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」ローマ8:35&37

<今週の黙想>朝毎に、今日のイザヤ書は、ヨシュア記の箇所を読み、神が共にいることを確認してください。そして、その日一日を、ヘビでなく、神に従うための闘いの一日、一週間としてください。

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