毎日の聖書(4月5日~4月11日)

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おざく台教会毎日の聖書 4月5日~

1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

4月5日(月)Ⅰペテロ5章

5~6節「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」

最近の若者言葉で「マウントをとる」という言葉があり、「相手より自分が優位であると示そうとする。」という意味だそうです。自己中心で、精一杯自分の弱さを隠そうとする私達人間は、なんとか人より優位に立とうと必死なのだと思います。そのような人への態度は情けないですが、神に対してそのような態度ではいないでしょうか?「謙遜」という本を記したアンドリューマーレーは、罪の起源は神への高慢であり、キリストの美徳とは謙遜であると語ります。あなたにとって、神と人との前にへりくだるとはどういうことでしょうか?今日一日、謙遜を追い求めてみてください。

 

「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」箴言18章12節

 

4月6日(火)Ⅱペテロ1章

2節「神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」

宗教改革者カルヴァンは信仰問答集の中で『人生の主な目的は何ですか?』という問いに『神を知ることです。』と答えています。神ではなく、別の何かを熱心に求めてはいませんか?あなたは今日、神を知るために、何が出来るでしょうか?あなたなりに取り組んでみてください。本当の幸いは、神を知ることにあるのですから。

 

「ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。」ガラテヤ4章9節

 

4月7日(水)Ⅱペテロ2章

7~8節「また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。 というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行ないを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。」

私達の社会は、周囲の空気を的確に読み、地域社会と調和のとれた生活を送ることを、良しとします。実際に、配慮や寛容さ、協調性は、とても素晴らしいことです。けれども、悪に対して、神を軽んじることに対して、人を虐げることに関しては、決して空気に流され、同調してはなりません。それには勇気がいるでしょう。けれど、目をつぶるのではなく、正しい心を痛め、言動でキリストに従うことのできる私たちでありますように。

 

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」ローマ12章2節

 

4月8日(木)Ⅱペテロ3章

9節「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」

神は罪人の私達を罪と死から救おうと、十字架で釘打たれた手を伸ばし続けてくださっています。同時に、私達は終わりの日までにその手を取らなくてはなりません。神がその日を延々と先延ばしにしておられるのは、一人でも多くの人が、キリストの赦しを受け取り救われるためです。あなたの家族が、あなたの友人が滅びないためです。祈り、伝えましょう。

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3章16節

 

4月9日(金)Ⅰヨハネ1章

9節「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

ダビデが小さな罪をきっかけに罪を重ね、やがては殺人者となったように、罪を犯すことが恐ろしいのでなく、罪が告白されないまま放っておかれることが恐ろしいのです。この第1ヨハネ1章19節は『信仰の119番』と言われています。行為や思い、言葉で罪を犯したならすぐに、この聖書の約束に信頼して、告白と悔い改めの祈りをしましょう。

 

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」詩篇51篇17節

 

4月10日(土)Ⅰヨハネ2章

15節「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。」

この世界を愛することは、神の命令であり、御心です。けれど、ヨハネがここで忠告する、愛するとは、神様よりも大切にする、神を軽んじ、それらに執着する、という意味です。

私たちの罪の性質は、神様に造られ被造物を、創造者である神様以上に価値ある物としてしまいます(それを「偶像」と言います。)そして、いつのまにか神ではない何かに、心と生活を支配されていまします。今日一日、神様を最優先にして歩んでみてください。

 

「何はともあれ、あなたがたは、神の国(*原語では、神の支配)を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。」ルカ12章31節

 

4月11日(日)Ⅰヨハネ3章

2節「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」

正しく歩むから神の子になれるのではなく、神の子とされたから、正しく歩みたいと願うのです。自分の信仰を疑うのは、信仰を持った人だけです。人や悪魔が何と言おうと、自分で自分を疑おうと、天からの声に耳を澄ませてください。誰が何と言おうと、神が言うのです。あなたは神の子です。

 

「そして天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」マルコ1章11節

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