4月4日(イースター)のメッセージ

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2020年4月4日イースター「イエス様の『おはよう』」

 

28:5 すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。 28:6 ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。 28:7 ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」

28:8 そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。 28:9 すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう。」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。  マタイの福音書

 

 

<今の私達の心は?>

みなさんはどんな心で、今日のイースターを迎えましたか?コロナ禍で迎える2度目のイースターです。昨年の今頃は、まさか今年まで長引くとは想像もしませんでした。コロナの影響は大きく、世界中でいのちと健康が、脅かされ、それに伴い、経済、生活、人間関係まで、甚大な影響を及ぼしました。(また、コロナがなくとも、私達の周りには、様々な痛み、喪失、そして、死があります。)そんな時、わたし達の心は、暗く、渇き、狭く閉じこもります。

キリスト教では、イースターの前の土曜日を、暗闇の土曜とも言います。イエス・キリストが殺され、弟子達は希望を失って、喪失の痛みと、今後への恐れから、暗い部屋に鍵を閉め、身体も心も閉じこもっていました。この一年私達の心もまた、弟子達の心に似ていたのかもしれません。

 

そんな心を昨年一年間、明るく照らし、潤し、和らげてくれた言葉があります。それは幼稚園のこども達の「おはよう」でした。コロナで禍、イライラピリピリする私達とは違って、元気に「おはよう!」と園庭に駆け込んできます。その声と表情には、これから新しい始まる一日への期待に溢れていました。こちらも笑顔になって「おはよう」と応える度に、今与えられている一日への感謝と、今の困難のその先に期待する心が生まれてきました。そしてこども達の言葉は、大切な人(方)の言葉を思い浮かばせてくれました。イエス・キリストは復活後の第一声は「おはよう」だったのです。

 

<復活後の第一声はいつも通りの「おはよう」>

沈み込む弟子達をよそに、墓に入れられて三日目の日曜日の朝、弟子達はお墓の中に、キリストは墓から颯爽とよみがえります。そして、女性たちに出会って言うのです。「おはよう。」なんと当たり前の挨拶でしょう。 もっと「ジャジャーン、生きかえったぞ!すごいだろう!」でも良いのに・・・死に勝利したのに、あくまでも普通に、いつものように、「おはよう」です。でもそれでいいのです、一度死なれた方の「おはよう」なのですから。このイエス様の軽やかな挨拶は、「もう終わった」と失望するわたし達に、「終わっていない」と「死の先があるのだ」と鮮やかに示しました。

 

 

<死んでいるのではなく、眠っているだけ>

この復活の第一声を聞き、以前イエスが語ったある言葉を思い出しました。

「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」マルコ5:39

死んだ少女、打ちひしがれる父親、嘆く人々、そんな場面でイエスはこう言ったのです。周囲の人はそれを聞いて、イエスをあざ笑いました。

少女は眠っていただけなのでしょうか?いえ、確かに死んでいました。イエスは勘違いしていたのでしょうか?いえ、ちゃんと分かっていました。しかし、イエスは死を超える力があることを知っていました。人々を失望させ全てを奪う死を前にしても、神の力を知っているならばまるで眠っているのに過ぎないことだったのです。

そして、イエスは少女を、母が娘を優しく眠りから覚ますかのように、まるで毎朝の日常の場面のように「起きなさい。」と言うのです。

「その子どもの手を取って、『タリタ、クミ。』と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。」マルコ5:41~42

 

 

<神と共にあるなら>

イエス様が神だったから、死にも負けず、喪失も恐れなかったのでしょうか?いえ、イエス様は、神でありながら、人となり、私たちと同じように、弱く、小さく、もろくなられたのです。イエス様自身も死を恐れました(マタイ26:35)。喪失に涙しました(ヨハネ11;35)。イエス様は「悲しみの人」と呼ばれました。イエス様は、私たち以上に痛み、苦しみ、悩み、試みられました。ですから、私達も気丈に振る舞わなくてもよいのです。私達もしっかりと、死や喪失を、恐れ、悲しんでよいのです。

 

けれど、イエス様は、死や喪失にしっかりと目を向けつつ、同時に神に目を向けました。痛みや恐れや悲しみを、私たち以上に体験しつつも、神が私達を死では終わらせないこと、様々な苦しみや死からも神が「起きなさい」と引き上げてくれることを信頼しました。もう終わりだと沈み込むわたし達に、死の先を示し言ったのです。「おはよう。」と

 

喪失や死を含めた、様々な問題にしっかりと向き合うことは大切です。けれど、どうか自分一人で全てを解決しようとしないでください。信仰とは、信頼と翻訳されます。自分の力や自信ではなく、神の力への信頼です。神が共にあるなら、死に打ち勝った方に信頼するなら、私達は様々な苦しみも、死さえも超えるのです

 

聖書に出てくる復活とは、同じ状態で行き返ることではありません。永遠のいのちとは、私の愚かさや醜さを抱えた不完全な命が永遠に続くことではありません。(それでは同じことの繰り返しで、失望しかありません。)聖書で、いのちとは第一義的には神との絆を意味します。まさにこの時から永遠に、神との絆に生きることができる、その新しいさが、それが復活のいのち、永遠のいのちです。

 

<なぜキリストがよみがえらなかったかのように失望してるのですか?>

宗教改革者マルチン・ルターは、その信条(宗教行為ではなく、一方的なキリストの恵みによって救われる、という主張)のゆえ激しく攻撃されました。勇敢でしたが、次第に身も心も疲弊し、落ち込んでいきます。

ある朝、ルターが起きると、家にはロウソクが灯され、妻ケーテが喪服を着て立っていました。

ルター「どうした?誰か死んだのか?」

ケーテ「神が死なれました。」

ルター「神が死ぬわけないだろう。イエスはよみがえったのだ。」

ケーテ「ではどうしてあなたは、まるでイエスがよみがえられなかったかのように、失望しているのですか?」

 

なんと強烈な一撃でしょう。ルターは再び信仰の目を覚まし、神とともに勇敢に歩み出しました。

イエスはケーテを通して、「おはよう」と、「起きなさい」と、言われたのです。

 

<あなたへの「おはよう」>

あなたは、もうだめだ、もう無理だ、もう終わった、そう諦めていることはありませんか?

このイースターの朝、イエスはそんなあなたの前に立ち、死に打ち勝った姿を示し言われます。「おはよう。」

周囲があなたを死んだものとして諦める時、イエスはあなたの傍らに立ち、手を取って言われます。「タリタ、クミ(起きなさい)」

 

私達は遅かれ早かれ、やがてこの地上での命を終えます。

人生を振り返り、全てに別れを告げ、ゆっくりと目を閉じ、全てが消え去ると思われたとき・・・

 

あなたは主イエスの声を聞きます。「起きなさい。」

イエスはあなたの手を取り、あなたの目の涙をぬぐい、ほほえみかけて言うのです。「おはよう。」

 

<祈り>

イースターによみがえられた復活の主よ。日々失望する私達の前に立ち、「おはよう」と語りかけてください。目の前の困難や死を超えたものがあるのだと、弱い私達に示し、手を取って私たちを起こしてください。

そしてやがての日、死を迎えたその日、私たちの手を取り、新しい復活のいのちへと私達を起こし、語りかけてください。「おはよう」と。復活の主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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