3月28日のメッセージ

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2021年3月28日「十字架の7つの言葉③」

 

マタイ27:38

そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。

 

ルカ23:39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。 23:40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。 23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」 23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」 23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

 

<ためにでなく、ともに>

「ためにでなく、ともに!」これは私が、教会や幼稚園で大切にしている(実践がとても難しいのですが)言葉であり、本来は止揚学園(滋賀県の障碍児福祉施設)の創設者福井達雨さんの言葉です。

福井さんによれば、「ために」というのは正義感に溢れ格好いいように聞こえますが、大人の側に重点を置く上からの働きかけであり、親や教育者・支援者などの期待通りにならなければ、そのこどもは否定されてしまいます。けれど「ともに」というのは、こどもの側に重点を置き、隣にいて寄り添う働きかけであり、どんなときも離れず捨てないという決心です。クリスチャンである福井さんは「ともに」という生き方は頭も足腰もフラフラになるしんどい関わり方であるが、これこそがキリストの人間への関わり方だ、と語っています。

 

<ふと横を見ると・・・>

強盗がかけられた十字架刑は、数ある死刑法の中でも、最も苦痛と恥辱を与える死刑法であり、末代までの恥とされた見せしめ刑でした。加えて、ユダヤ人にとって木にかけられたものは呪われるとされ、神の国に入れないと考えられていました。この強盗は人生の失敗者。人から指さされ、笑われ、神に見捨てられた存在。当時考えられた最悪の結末でした・・・(私達もコロナ禍で、また日常の諸問題を通して、自分は神にも人にも見捨てられたと、落ち込んでいないでしょうか?)

しかし、強盗がふと横を見ると、そこにはイエス・キリストが隣におられたのです。神が人となって、隣の十字架の上にかけられておられました。この世界の創造者が、罪ない聖なる方が・・・汚れた、忌み嫌われた十字架にかけられてまでこの強盗と「いっしょに」、におられたのです。私達が気付いても、気付かなくても、神は「ともに」おられるのです。

 

<本当の救い>

マタイによれば、2人の強盗は最初イエスをののしりました(マタイ27:44)。私達も困難の中で、ストレスの中で、神や人にひどい対応をしてしまうことがあるでしょう。「何をしているか自分で分からないのです。」(ルカ23:34)しかしうち一人は、隣にいるイエスを見る中で心が変わっていきました。

 

強盗は2人とも「救い」を求めます。一人は十字架から、困難な状況から救えと言います。もう一人は、私を思い出してください、と神との関わりにおける救いを求めます。

私達は、最初の強盗のように、自分の外側に問題があると考え、状況の改善を求め神に祈ります。そして、状況が改善したかどうかで、神は私達の「ために」なるかと、神の愛を判断します。

けれど、考えてみたいのですが、仮にこの強盗が十字架から降ろしてもらったとして・・・その後彼はどうなるでしょうか?彼の内側が変わらない限り、やがて十字架に戻るのが関の山でしょう。(私達も彼に似ています。)

もう一人は、自分の内側に、神との関わりに、問題が抱えていると考えました。そして、彼はもっと大切なことを求めました。私を思い出してください。私を憐れんでください。共にあってください。と。

 

<共にいる神>

キリストは生まれた時2つの名で呼ばれました。1つ目はイエス(神は救う:マタイ1:21)、2つ目はインマニュエル(神は共にいる:マタイ1:23)。キリストの名が表す通り、神が共にいてくださることこそが救いです。

私達の神は、共におられる神なのです。「あなたはどこにいるのか?」(創世記3:9)と人を求め続ける神です。たとえ人間がどれだけ背を向けても、どれだけ拒んでも、隣へと来られます。およそ考えられる最悪の状況である十字架にさえも来られ、「ともに」いてくださいました。(ピリピ2:6~8)

かつてある信仰者は断言しました。「天に神がおられるのではなく、神がおられるところが天である。」

 

<永遠に共にいるために>

イエス様の今日の言葉「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)これは立派な理解や言葉のご褒美と考えていませんか?(キャンプなどで救いの条件の説明に用いられがちですが、それでは、イエス様の愛と決意を表せていません。)

イエス様はこの時、自分を救え、十字架から降りてみろと、3度も呼びかけられている(35,37,39節)でもイエス様は降りませんでした。だって、十字架には強盗がいたから。十字架にかかかってまで、この強盗と「ともに」いたキリストは、この強盗が(そして私達が)永遠に神と「ともに」いるために(それが強盗の願いでした)、十字架にとどまり続けたのです。

今日の言葉は、「わたしは何があっても決して十字架から降りない、あなたを諦めない。あなたの罪を身代わりに背負い、あなたを取り戻すのだ」という、決心です。

 

<困難の中で隣を見る>

イエスの言われた「今日」とは、まさにこの日、今この時、といった意味です。イエスが十字架にとどまり続けてくださったから、自分でなく、私達を救ってくださったから、十字架の日以来、私達は神とのつながりを取り戻しました。

この世界のどこにも、救い主が来られない場所はありません。どのような最悪な場所や状況にも、主はともにいて、その場を、その状況を、天のようにしてくださる。そして、いっしょにいて、ご自身との関わりの中で、救い上げてくださる。難しい状況の時、諦めたり、感情に流される前に、祈りの中で隣を見てみてください。そして、気付くのです。主はともにおられると。それが私たちを支える力、人に愛し仕える力です。

 

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