8月16日のメッセージ

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2020年8月16日「困難の時に知っておきたい聖書⑪~争わなくても大丈夫~」

 

<聖書 ヨハネの福音書4:13~14>

イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

 

<ファミリータイム 創世記>

26:19 イサクのしもべたちが谷間を掘っているとき、そこに湧き水の出る井戸を見つけた。 26:20 ところが、ゲラルの羊飼いたちは「この水はわれわれのものだ。」と言って、イサクの羊飼いたちと争った。それで、イサクはその井戸の名をエセクと呼んだ。それは彼らがイサクと争ったからである。

26:21 しもべたちは、もう一つの井戸を掘った。ところが、それについても彼らが争ったので、その名をシテナと呼んだ。 26:22 イサクはそこから移って、ほかの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、私たちがこの地でふえるようにしてくださった。」・・・

26:32 ちょうどその日、イサクのしもべたちが帰って来て、彼らが掘り当てた井戸のことについて彼に告げて言った。「私どもは水を見つけました。」 26:33 そこで彼は、その井戸をシブアと呼んだ。それゆえ、その町の名は、今日に至るまで、ベエル・シェバという。

 

<争い合うわたし達>

昨日は75回目の終戦の日でした。もう2度とあの悲惨な戦争を繰り返さないと、それぞれが誓ったことだと思います。しかし、あの戦争だけでなく、土地を巡って、資源や財産、権力や立場を巡っての、争いが世界にもわたし達の周りにもあります。

もちろん自由や権利をめぐり声を上げ行動すべき時もありますが、どんな時も、妬み、畏れ、不安など感情や衝動に駆られた「争い」にならないように気を付けたちと考えています。

 

<何に信頼しているか>

争う時のわたし達は、神が自分を支えるのではない、土地が、資源が、財産が、権力や立場が、自分を守り支え生かすのだ、という考えに支配され、それを脅かす相手を敵と見てしまいます(たとえそれを手に入れなくても神はよくしてくださるはずなのに・・・)。ある意味で、争い合っている対象に信頼しているのです。

 

幼稚園で小さな工作をすると、元気な男子は、「欲しい欲しい、僕が先だと!」と奪い合って、ケンカに発展する。一方賢い女子は、横に来て、「先生優しいから、後で作ってくれるでしょ。わたし待ってるの。」とニコニコ立っている。

何かを欲しがり求めることは自然です。けれど、信頼できる存在がある時、人はよりしなやかに生きることが出来ますね。

 

<争わなかったイサク>

今日の箇所でも、争い、争いと出てきます。古代において、中東のような暑い場所において、水を確保できる井戸は、まさに命の泉でした。(水道をひねれば美味しい水が出る現代の羽村とは状況が違うのです。)水を確保すれば、人は生き、家畜を養い、生活が保障される。井戸を中心に街が出来る。簡単には手に入らない、古代では何より大切なものでした。キャンプやフォークダンスで有名な『マイム・マイム』は水を見つけた喜びを表現するヘブライ語の歌で、歌詞は旧約聖書イザヤ書の「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。」イザヤ書12章3節です。

 

だからゲラルの羊飼いたちは妬んでイサクの井戸を土で埋め、イサクのしもべたちが井戸を掘り水を見つけた時には奪おうとした。

ですが、不思議とイサクは争いません、だまってそこを離れて次の井戸を探して掘る。あっさりとしています。もし井戸が見つからなかったらどうするのか、ゲラルの人々の態度は正しくありませんし、この場合は争うべきだと思います。(わたし達も不当なことに関しては、声を上げるべきです。)イサクの姿勢は愚かで意気地の無い選択のように感じます。

 

しかし、イサクはわたし達が忘れがちな1つの確信がありました。それは、争おうが、争うまいが、神が善くしてくださる、と言うことでした。かつてイサクの父アブラハムも(創世記13:7~)、神は必ずよくしてくださると信頼し、争いの時に甥のロトに土地を選ぶ順番を譲りました。

 

イサクは少し前(創世記26:6~)に、恐れに駆られて、父と同じ失敗をしていました。それでも神はよくしてくださった。その経験がこのときに生きたのです。

この井戸を握りしめなくても大丈夫、争ってもいいけど、争わなくても大丈夫、神はこの小さな問題よりも大きな方であり、他の井戸を見つけさせ、私を養ってくださる、そう信頼したのです。

 

そして、実際に行く先々で神様が井戸を与えてくださった(創世記26:22,32)。この出来事から、2つのことばが浮かびました。

1つ目はヘブル書11章6節です。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」イサクは神がきっとよくしてくださる、という信頼に生きていました。

 

2つ目はヨハネの福音書4章13~14節です。「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』」イサクはある意味すでに内側に井戸を持っていたのです。内に井戸を持っている人は、感情や衝動によらずに、争うとしても正しく争うことが出来ます。

 

争いに正しいも、正しくないも、ないのかもしれません。(究極的には全ては神のものなのですから)。しかし、たとえ争う時も、正しい争い方というのはあるように思えます。神が必ず善くしてくださる、という神への信頼です。物や対象ではなく、存在への信頼です。

 

<今週の黙想> あなたには争っている井戸はありますか?あなたは何に信頼をしながら争っていますか?ゆっくりと考えてみてください。

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