8月9日のメッセージ

IMG_20200808_194533今週のメッセージです。
筋肉は裏切らない・・・ではなく、神は裏切らない、です。

2020年8月9日「困難の時に知っておきたい聖書⑩~神は裏切らない~」

<聖書 第一コリント10:13>
あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

<ファミリータイム 創世記>
22:1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。 22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」 22:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。 22:4 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。・・・22:8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。・・・
22:10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。22:11 そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」 22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」 22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。 22:14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。

<危機を試練ととらえる>
わたし達は、生活、生命、精神、経済、人間関係を脅かす様々な危機に直面します。例えば、コロナ禍のような伝染病、地震や豪雨などの災害、(今日は長崎に原爆が投下された日ですが)戦争、今日ではリーマンショックのような経済危機。身近なものは、病や事件事故、職場・学校・家族でのトラブル。わたし達はそれらをなんとか乗り切ろうと必死になります。

以前ある牧師から、困難にあった時、それらをただの困難・危機・不幸としてではなく、試練として、とらえなさいと聞いたことがあります。

聖書で試練と訳される言葉は、誘惑とも訳されます。神を疑り、神を信頼しなくなり、神の約束を忘れ、別の何かに走りたくなる、そんな危険をも伴った出来事です。ただ、問題解決すればいいのではない、ただコロナ禍を通過すればいいのではない(もちろんそれも大切ですが)、困難の中でわたし達の神への信頼や、人の祝福となるという使命が、わたし達のあり方や、やり方が、問われていると言うのです。
<困難の中での信頼~神はよいお方>
アブラハムも22章で試練に合いました。(12章からのアブラハムと神様との関わりの中で、また聖書全体から理解しないと、誤解する箇所。)
アブラハムが移住したカナン地方では、神々のためにこどもを犠牲にする宗教行為があり、神はそれを非常に厳しく禁じられた。だからアブラハムは、イサクを捧げよと言われたとき、以前のように、「神様あなたはそういう方ではないですよ」(創世記18:23~)、と言うこともできた。でも言わない。イシュマエルの時は「自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。」(21:11)とありますが、今回はもっと難しいはずなのに、「翌朝早く」(22:3)、さっと行動します。嘘ついたり、家族問題を抱えたり、そんな以前の姿はありません。

きっと今日の聖書のような思いが心にあったのだと思います。
「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」第一コリント10:13
この真実とは、約束を貫き通すという意味です。アブラハムはイサクに言います、「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」(創世記22:8)神はイサクを通して、子孫を増やし世界を祝福すると約束してくれた。真実な方は、その約束を曲げたりしないは良いお方であり、今まで私を助け続けてくれた。21章ではイシュマエルも助けてくれた。イサクは失われたりしない、今回のこともきっと何か意味がある。そう信頼した。(ある人は、神のために全てを犠牲にするか、徹底的に命令に従うかを試した、とも言います。しかし、信頼と思考停止は、従順と隷属とは違うのです。神はアブラハムをとも信仰、つまり、信頼とは、互いの関係の中での応答です。)

ところが、山の上に行っても、羊はない。アブラハムはイサクを手にかけようとします。自分の予想と違った。しかし、変わらないことがある、神は良いお方であるということ、約束を貫き通すということ。後に新約聖書はこの出来事をこう説明しています。
11:17 信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。 11:18 神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、 11:19 彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。(ヘブル書)
アブラハムは、盲目的だったのでも、狂信的だったのでも、思考停止していたのでもありません。今までよくしてくださった神、自分が裏切っても見捨てず、約束を成し遂げてくれていた神が、今回も必ずよくしてくださる、これには意味があると信頼していたのです。

そして、アブラハムの信頼通り、神様は脱出の道を備え、羊を用意してくださった。
アブラハムは最後に言うのです。
「アドナイ・イルエ・・・『主の山の上には備えがある。』」(22:14)
やっぱり神は良いお方。今までと変わらず、これからも約束を曲げない方。

<わたし達も神を信頼して>
アブラハムの失敗も多かった生涯は、その度に表された神の愛は、この時実を結びました。この信頼は、後に絶望的な状況に直面する信仰者達に、絶望の中での信頼を教えてくれました。だからこそ彼は信仰の父と呼ばれるのです。
人の目には、神の約束が途絶えそうに見える時があります。神が信頼できなくなる時があります。
イスラエルがエジプトで長く奴隷となった時、エジプトを出るが前には葦の海が広がり後ろにはエジプトの軍勢が迫る時、バビロニアに滅ぼされる捕囚となった時、救い主キリストが十字架にかけられたとき・・・・それでも神の約束は変わらないと、モーセは、エレミヤは、キリストは、人々を励ました。
そして、状況が絶望的になってもし、希望が粉々に砕かれても、神はエジプトから助け出し、バビロンから連れ戻り、キリストを墓の中からよみがえらせました。どんな絶望の中にもアドナイ・イルエ(神の備え)があったのです。

コロナ禍にあって、教会も、わたし達も、アブラハムやイスラエルとはまた違った試練に合っています。だからこそ、経済や、生活だけでなく、信仰面でも揺さぶられています。だから思い出したいのです。神は良い方であると。約束を曲げないと。どんな絶望の中にもアドナイ・イルエ(神の備え)があると。こんな時だからこそ、今まで以上に、神に愛された者として、神の子として歩みたいのです。

<犠牲の愛キリスト>
アブラハムがイサクを犠牲にするのを神は止めました、この地方で行われていた神々(バアル神やモレク神)のために子を犠牲にするのを禁じる意味があったとも言われます。
わたし達人間は犠牲が好きです。交換条件が好きです。人が神に犠牲を捧げる、神はそれに答える、わたし達側の行為で神の心を動かそうとする。しかし、それを神の真意ではありません。
むしろ、神が人のために犠牲になるのです。神がやがて十字架でそのひとり子キリストをわたし達の罪の身代わりとしたのです。『キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。』(ヘブル9:26)
わたし達が神を動かすのではありません。神の一方的な愛と赦しが、日々わたし達を動かすのです。

今週の黙想:第一コリント10:13を暗唱し、思い巡らせながら歩んでみてください。創世記11~22章のアブラハムの歩みをゆっくりと振り返ってみてください。

Top