6月14日のメッセージ

2020年6月14日「困難な時に知っておきたい聖書の言葉②~上を向いて~」

 

<聖書 ピリピ人への手紙>

4:6 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

 

<ファミリータイム 創世記4章「カインとアベル」>

4:6 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。 4:7 あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」 4:8 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。

 

<困難は私たちへのリトマス試験紙>

先日『コロナ禍で問われる人間性』という記事を読みました。コロナ禍は「人間性を判定するリトマス試験紙」であり、コロナによって身体にも心にも負担がかかっている今、夫婦間で、職場内で、その人の本当の姿が露呈されてしまう、と記されていました。私達はコロナの数か月、いえ、コロナ以外でも、日々困難やストレスに直面する時、わたしたちはどのような姿でいたでしょうか?

 

<思い煩わないで>

コロナの時、私達の多くは一人で思い煩いました。普段のように、人に話したり、外で気晴らしをしたりも出来ません。ある牧師が「私達の内側にある罪の心は、怒りや不満、悲しみなどを餌に大きく成長する。」と話してくれました。そして、思い煩い続けるなら、心の中の罪は大きく膨らんでいきます。「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている」(創世記4:7)状態です。やがて外へと爆発し、人を傷つけ、時に命を奪います。兄弟アベルを殺したカインは、私達の姿そのものです。

『カインとアベル』では印象的な言葉が繰り返されます。「カインはひどく怒り、顔を伏せた。 そこで、主は、カインに仰せられた。『なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。」(創世記4:5~6)カインは『顔を伏せ』ていたのです。それまでは上に、天に、神に向いたり、兄弟アベルに向いていたはずの顔が、伏せられ、一人自分の中で思い煩っていた。そして、次第に人間らしさを失い、まるで獣のように、自分の弟を手にかけるのです。時には、自分の心に一人静かに向き合うことも大切です。しかし、伏せたままでは救いがないのです。

 

<あなたの顏を上に>

面白いことに人間という言葉は、ギリシャ語でアンスローポス。『顔を上に向ける者』という言葉です。(旧約聖書はヘブライ語ですし、新約聖書が記される前からギリシャ語はありましたが)パウロは、いえ神様は、人間とは、顔を上に、天に、神に向けるものだ、それでこそ人間らしくいられるのだ、きっとそんな思いをもってこの言葉を用いたのでしょう。

今日のピリピ4:6~7には、立派な心で神に向かえとは一言も記されていません。思い煩ったままでいいから、どんな身勝手な願い事でもいいから、神に知ってもらいなさい。神は全てのことをごご存知なのになぜ?それはあなたの顔が、心が、上に向くことが大切だからです。

私たちが見上げると、神様と目が合います。親が子を見るようにずっと私たちを優しく時に心配して見守っている天の父の視線に気付くわけです。そして、神様と一緒に、私達の内側の問題も、外側の問題も取り扱ってくださり、「人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:7)

 

<それがどんな心でも>

聖書の詩篇の中には、自分の恨みや怒りや悲しみを、好き放題神にぶつけるような詩篇がたくさんあります。(呪いの詩篇と言われます。)時には神を非難する言葉まであります。なんで聖書にこんな内容が・・・と思わず読み飛ばしたくなります。でも正直でいいのです。自分の中で思い煩い、罪の心に餌をやるよりは、その罪に満たされ、誰かを傷つけるよりは、顔を上に向け、正直に神にすべて持って行けばいのです。呪いの詩篇は、最初は不満や怒りを述べていますが、次第にその罪の心が溶けて消え去るかのように、感謝や賛美の歌に変えられていきます。母親の膝で怒りや文句を言っていた小さなこどもが、次第に言葉や表情が柔らかくなり、いつのまにかすやすや眠ってしまう、そんな場面を思い浮かべます。カインも、顔を伏せていないで、顔を上げて、不満や怒りを神に正直に向けていたら・・いつもそう思います。

 

<いつくしみ深い方>

今日礼拝で歌った『いつくしみ深き』という讃美歌は、ジョセフ・スクライベンという人の経験した悲しみから生まれました。彼は、結婚式の前日、婚約者と馬にのっていました。川の上にかけられた橋を渡るところで、突然馬が暴れ出し、愛する婚約者は川に落ち、命を落とします。

失意の中でもスクライベンは、先生としてこども達を熱心に教えます。再び婚約をしますが、その相手も病で天に召されます。周囲の人は、彼はもうダメだと思った。しかし、彼を心配する人に、スクライベンは私は神に心を打ち明けつつ歩んでいます、と手紙を記します。それがこの讃美歌の歌詞となりました。原文の英語では『Take it to the Lord in prayer』(罪を、弱さを、痛みを、全てを、祈りを通して神へ持っていきなさい)と繰り返されます。その方は慈しみ深い方だ、そう繰り返されます。

Have we trials and temptations? Is there trouble anywhere?

We should never be discouraged; take it to the Lord in prayer.

Can we find a friend so faithful who will all our sorrows share?

Jesus knows our every weakness; take it to the Lord in prayer.    (英語2番)

 

恨みや怒りがあれば、どうかあなたの顔を上げ、十字架のキリストを見上げてください。私達のためにも、私達が恨み怒っている人のためにも、十字架にかかられた方の顔を見て、心をそのままを打ち明けてください。神への不満や文句があったとしても、そのままぶつけていいのです。実は、この後、カインがアベルを殺した後ですら、神はカインを見捨てなかったのです(創世記4:15)。私達が、たとえどれだけ失敗しても、顔を上げた先の十字架にこそ、救いがあるのです。

 

<今週の黙想> 今週を祈りの週としてみてください。何かあるごとに心を上に向け、あなたの喜びも、悲しみも、失敗も・・・祈りを通して、神様に持って行ってください。

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