5月17日のメッセージ

120おざく台教会では、ZOOMで礼拝や聖書の会を行っています。ご希望の方は気軽にお問い合わせください。

 

礼拝:日曜日10時30分~
聖書の会:水曜日10時~、19時~

5月17日「召使いになった王様」

 

<聖書:マタイの福音書>
28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、 28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

 

 

<ファミリータイム>
ヨハネ13:1~15 最後の晩餐で、愛ゆえに弟子達の足を洗うイエス様。

 

 

<愛のない王様になろうとする私達>
今日から3回、マタイの福音書の最後のイエス様の言葉を見ていきます。「大宣教命令」とも言われる個所ですが、ただキリスト教を布教しなさい、というような命令ではありません。
今日は、愛ゆえにしもべとなるキリスト。次回は、癒しを与えるキリスト、その次の回ペンテコステの日は、共にいるキリスト、という内容でお話しします。

幼稚園の保護者の方々と話していて、最近息苦しい、という話をよく聞きます。自粛警察という新しい言葉が生まれ、何かあるとすぐに批判される風潮があり、こどもを遊ばせるだけでも一苦労で息苦しいそうです。
もちろん安全に気を付けることはとても良いことです。しかしあるニュース記事では、「安全」という良いものを武器にして、人が人を傷つけている、と指摘されていました。感染症への恐れや先行きへの不安から、私達それぞれがストレスをため込んでいます。それが自分とは違う考え、自分とは違う行動をする人への怒りとして表されているそうです。
人を批判するその主張自体は正しいのかもしれません。しかし、たとえ「正しく」ても、「正義」でも、「正論」でも、その人の本当の動機は何でしょうか?どこか人間の弱さや罪が見え隠れします。「正しさ」を、正しく用いることが出来ないのです

罪とは自分が神様のようになりたがることだ、自分が王様のように神と人に対して振る舞うことだ、と聞いたことがあります。そして、私達が余裕を失ったとき、その罪の性質はさらに顕著になります。正しさ、立場、権威を過度に主張し、自分の思い通りにしようと周囲に強要します。しかし、動機に愛が全くないため、周囲を傷つけ苦しめてしまうのです。

 

 

<愛する者のためにいのちを捨てる権威>
復活したイエス様は、「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」と告げました。権威を主張します。
上司と部下、先輩と後輩、親と子、教師と生徒などの関係で、(時には夫婦や教会内で?)、「わたしには権威があるのだ。」と主張したり、主張されたりしたことはありますか?どんな動機で、どんな心でそう言ったでしょう?わたし達は、権威を示されると警戒します。逆に権威というものを持てば気が大きくなり、尊大にふるまってしまいます。しかし、イエス様の言う権威とは、同じ言葉でも私たちとは使い方・意味が違うようです。

 

イエス様はこんな風に言いました。「わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり・・」(ヨハネ10:18)
イエス様にはいのちを捨てる権威があった、イエス様は権威をもっていのちを捨てたのです。
権威とは、「自由にする力」、という意味の言葉です。
私達人間は、権威や立場、自由や力を、自分を大きくするため、人をコントロールするため、何かを奪うため、正しくないと判断したものを攻撃したり、するために使います。
しかし、イエス様は反対にその自由を、力を、権威を、用いて、徹底的に遜りました。ご自分の権威で、誰より豊かで大きな方が誰よりも乏しく小さくなりました。誰より力があり自由な方が、最も不自由な十字架刑に力なくかかりました。罪人であるわたし達を罰するにふさわしい方が、罪人であるわたし達に逆に罰せられたのです。それは、私達の罪を身代わりに背負うため、私達にいのちを与えるためでした。
何がそうさせたのか・・・動機に私たちへの無限の愛があったのです。

 

 

<イエスの同機は愛>
今日ファミリータイムで読んだ最後の晩残の出来事。始まりにこんな一節があります。
「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。」(ヨハネ13:1)
イエス様がへりくだったのは、単なる見本やパフォーマンスではありません。愛ゆえにでした。弟子達を愛していたから、当時の召使いの仕事である、足を洗うという作業を、自ら買って出たのです。私達を愛していたから、十字架で私達の罪を負ったのです。イエス様の動機は愛です。イエス様は誰より権威ある方です。誰よりも正しい方です。だれよりも力ある方です。その方が、権威を、正しさを、力を、愛を動機として用いてくださったので、十字架があるのです。

 

私達に一人一人には、権威とまでは言えなくても、それぞれの立場や、力や、自由が与えられています。知識や、正当な主張もあるでしょう。では、私達がそれらを用いる動機は何でしょうか?私達の内側の動機によって私達がそれらを用いる方法が変わるのです。私達の動機が大切なのです。

 

補足:ビジネスの世界には、サーバントリーダーシップと言う言葉があります。キリストの洗足の出来事や、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕しもべになりなさい」(マタイ20:26─27)という言葉から影響を受けているとも言われます。リーダーが威張るのでなく、積極的に人に仕えるのです。とても良い考えだと思いますが、イエスが示したのは、単なるリーダーの見本ではありません。愛ゆえの行動であり、足を洗うどころか、十字架でいのちを捨てるほどの、私たちへの愛です。

 

 

<愛ゆえにへりくだった方を礼拝しながら>
ピリピ人への手紙には、以下のような箇所があります。
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、 2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。 2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。 2:9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。 2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、 2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

 

イエス様は権威を行使し、神のあり方を捨て、ご自分を無ににし、仕える者となり、卑しくなり、十字架で死なれました。イエスが自由に、自らの力を用いたのです。
私達は、その方を礼拝し、「イエス・キリストは主である。」と告白するのです。これほどまでに私達を愛し、その表れとしてへりくだられた方を拝み、主と告白するなら、私達はその方より低くなっていくはずなんです。その愛が私達の心と魂に流れ込み、私たちのうちからも愛があふれ流れてくるはずなのです。

 

もちろん、不正にはNOと言うべきです。自分の意見を主張するのも大切です。上司として、親として、または別の立場から、毅然とした態度を取ることも必要です。
でも信仰者である私達はいつも問いたいのです。私は愛ゆえに十字架にかかられた方を今礼拝しているか?罪ある自分に注がれたキリストの愛を味わっているか?その方の愛で目の前の人に向き合っているかと?と。

 

 

<今週の黙想>
ピリピ2:6~8を毎朝読んでみてください。
私達が誰かから権威を主張されたとき、それはピリピ2:6~8のイエスの姿と似ているか、その人の本当の動機は何かを考えてみてください。
私達が権威を主張し、誰かに訴えかける時、それはピリピ2:6~8のイエスの姿と似ているか、私の本当の動機は何か問い直してみてください。

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