5月10日の礼拝(母の日)

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5月10日は母の日ですね。教会から始まった習慣だそうです。
おざく台教会では、すべての女性にカーネーションをプレゼントしています。
昨日と今日、マスク、消毒液、カーネーションを配布してきました。みなさんの笑顔に、逆に勇気づけられました。

おざく台教会では、ZOOMで礼拝や聖書の会を行っています。ご希望の方は気軽にお問い合わせください。
礼拝:日曜日10時30分~
聖書の会:水曜日10時~、19時~

5月10日(日)のメッセージです。

2020年5月10日「あなたはわたしに従いなさい」

<聖書:ヨハネの福音書>
21:18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」 21:19 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」 21:20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。 21:21 ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」 21:22 イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」

<隣の人が気になる私達>
復活の後のキリストの言葉を少しずつ読んでいます。今日は「あなたはわたしに従いなさい。」です。キリストのこの言葉は、わたしたちの耳に、心に、どのように響くでしょうか?

娘達はお互いが気になるらしくちょっとした差があると、「ズルい」「ひどい」と、相手や親を訴えます。どうやら、「うらやましい!」「私も大切にされたい!」の言い換えらしいです。
その気持ちも受け止めつつ、「人は一人一人は違うんだよ。うらやましく感じるだろうけど、相手が君をうらやむこともあると思うよ。世界には恵まれないこどももたくさん・・・」と、ありきたりの説明をします。確かに私達は一人一人違います。誰一人として同じ人はいません。そして、違うゆえに、わたし達の心は騒ぎ立ちます。

先日、非常事態宣言が延長されました。ニュースでは、感染症そのものに加え、経済的な困窮、仕事や生活のストレスなど、多くの方の苦労を耳にします。「なぜ私だけこんな目に」と思っている方もいれば、「それほど大きな影響はなく良かった」と思っている人もいるでしょう。みなが同じなら、「一緒に頑張ろう!」とも言えるかもしれませんが・・・状況が違うことで、うらやんだり、非難し合ったり・・・

いえ、私達はコロナウイルスの前から、隣の人が気になるのです。けれど、容姿、能力、家柄、仕事、家族構成、学歴、病歴、友好関係、生活に起こる様々な出来事、そんな人との違いが、わたし達の心を揺さぶるのです。
それはキリストの弟子達も同じでした。

<隣のヨハネが気になるペテロ>
ペテロは、この直前でキリストの赦しを体験し、教会のリーダーとして再び任命され、心は感動で震えていたでしょう。しかし、この後、自分が苦労を体験すると聞き(18節)、眉をひそめたようです。すると、キリストに向いていた目が、隣へと向いていきました(20節)。そして、12弟子のヨハネについて質問します。「主よ。この人はどうですか。」(21節)
「この人はどんな苦労をしますか?」「ひょっとしてこの人は私ほどは苦労せず、迫害を生き延びるのでしょうか?それはズルいでしょう?」そんな意味が込められていたかもしれません。
そんなペテロにイエスは答えます。「あなたは、わたしに従いなさい。」22節
この言葉は、横を見て心を騒がす私たちへのすべての人間への言葉でもあります。

<あなたはわたしに従いなさい>
最初ペテロの心には響かなかったのかもしれませんが・・イエスはペテロの苦労を告げただけでなく。素晴らしい招きの言葉を語っていました。「わたしに従いなさい。」(19節)
もし人間がこう言うなら、「命令を聞け、口答えするな。」、そんな程度の意味でしょう。しかし、キリストの場合は違います。キリストは口だけではなく、その生涯すべてで、神なのに誰もよりもへりくだり、見捨てられ傷ついた人に寄り添い、惜しみなくいのちを分け与え、十字架にまでかかる方でした。
キリストは、ただ道を示し、そちらへ行けという方ではありません。ペテロが招かれた歩みは、すでにキリストが歩んでいました。ただの苦労の道ではないのです、先にイエスが歩んだ道です。そのイエスがペテロに、私の足跡をたどってくれ、と招いているのです。
ペテロは教会のリーダーとして尽力し、皇帝ネロの時代にローマで逆さ十字架刑で死刑になります。
ヨハネはエペソ教会を導き、島流し先のパトモス島で黙示録を記します。(12弟子でただ一人死刑にはなりませんでした。)確かに二人の歩んだ道は全く同じではありません。では、ペテロはずっと不満だったでしょうか?いえ違います。ペテロは、やがて神に動かされこのように記しています。
「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」 第一ペテロ2:21
ペテロは後に気付いたのです。自分の前にも、ヨハネの前にも、それぞれのためにキリストが残された足跡がある。二人が歩んだのは同じキリストの道です。
そして、キリストの道であるなら、それは人が、癒されることに、祝福されることにつながります。
先ほどのペテロの言葉はこう続きます。「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(第一ペテロ2:24)

<あなたの人生の、キリストの足跡>
わたしたち一人一人の前にも、キリストの足跡があります。ペテロになる、ヨハネになる、別の誰かになるのでもなく、自分の前に置かれたキリストの足跡に、それを先に歩まれた方に、自分の名を呼ぶ声に従うのです。

もっと違う自分に生まれたかった、違う環境からスタートしたかった、違う道をたどりたかった、そう思う気持ちもあるでしょう。
けれど、あなたの目の前にあるキリストの足跡をたどれるのは、世界であなただけです。他の誰かに頼むことは出来ません。目立たないかもしれません。光が当たらないかもしれません。苦労は絶えないかもしれません。けれどそれは神があなたに「生きよ。」(16:6)と語りかけた生涯であり、「これが道だ、これに歩め」(イザヤ30:31)、といわれた、あなただけの道なのです。
その道を、あなたの毎日を、一生を、投げ出さないこと、諦めないこと、むしろ、「キリストならどうなさるか?」と問いながら、それぞれの生活の場、仕事の場でキリストの足跡を探し、一歩一歩その足跡に自分の足を重ねながら歩むのです。神が天へと招く日まで。それはあなただけにしかできないことです。
<本当の責任>
みなさんの中には力や余裕があり、「この人はどうですか?」という言葉を、うらやむ意味ではなく、思いやりの意味をこめて「神様どうかこの人を憐みお支えください。」という願いをもって用いる人もいるでしょう。「願わくは人生や状況を変わってあげたい。」誰かにたいして一度はそう思ったことがあるでしょう。

ペテロは、教会のリーダーという素晴らしい責任ある大役を授かりました。しかし、それは自己満足のためではありません。責任(Responsibility)とは応答(Response)と能力(Ability)という言葉が合わさったものです。私が責任者だから偉いのだ、とか、何かあった時に責任を取る、と言った意味ではなく、目の前の出来事に応答する能力と責務を神から与えられている、という意味です。
ある人は、能力、立場、財産、知識、技術、人脈、などが豊かに与えられています。それは決して誇るためのものではありません。人に仕えるためのものです。キリストは、神でありながら、その全てを注ぎ出しました。
わたしたちに与えられた力は、小さなものかもしれません。けれど、神様が愛と期待を込めて私達一人一人にあたえてくださったものです。それは人に仕えるために、あなたに委ねられたものです。

<今週の黙想>第一ペテロ2:21~25を読み、「あなたはわたしに従いなさい。」というこの語りかけに思いを巡らし、自分なりに神の愛に応える応答をしてみてください。

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