7月26日のメッセージ

2026年7月26日「キリストの福音22」  マルコの福音書

 

8:31 それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。 8:32 しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。 8:33 しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」34 それから、イエスは群集を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

 

<科学的な第六感>

 理科の教師をしていると、これこれは科学的に正しいの?とよく聞かれます。先日「第六感」について尋ねられました。別の言葉では、インスピレーション、直感、予感、虫の知らせです。
 予感が的中した、虫の知らせで危険を回避した、などの話も聞きます。しかし、実際には外れていることが多く、うまくいった事例に注目した、結果論と考えられています。
 ところが、人間には実際に、第六番目の感覚があることが科学的にも分かってきました。それは、磁場、磁力をとらえる感覚です。人間はおぼろげながら、まるで渡り鳥やミツバチのように、地球の磁場を感知できているようです。その力が伸びれば、道迷いも減るかもしれません。

 第六感は、方向がわかること。これは、理科教師としてだけでなく、牧師としても、大変興味深いことです。聖書の中で、「罪」という言葉が出てきます。人を神から引き離し、悪へと向かわせるものなのですが、その語源はギリシャ語の「方向違い」という言葉です。誤った道を進んでしまう、誤ったものに心を向けてしまう、それが罪の本質だと聖書は言うのです。
 私達が聖書を開くとき、そこには、地図のように、羅針盤のように、愛について、善について、そして神について、方向が示されています。それを示すのが「わたしが道であり」(ヨハネ14:6)と言われたキリストです。聖書とはルールブックではなく、キリストの姿と言葉を通して、私達にとって大切な方向を示してくれるものです。聖書を通し、キリストを、大切な道を知ってください。

<キリストを軌道修正しようとする私たち>
 前回の箇所、3年間の旅を経て、ペテロはイエスから尋ねられます。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか?」(8:29)ペテロは「あなたはキリストです」(8:29)と信仰を告白する。イエスこそが、神が遣わした、メシア・救い主だという。
 しかしその後イエスの口から出たのは驚くべき一言でした。人の子(メシア)は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならない」(8:31)苦しみを受ける・捨てられる・殺される。それは、弟子たちが想定していたメシア(・救い主・キリスト)とはかけ離れていました。
 
 ユダヤの国は、様々な国に支配され、当時はローマ帝国の支配下にありました。誇りが踏みにじられ、生活は苦しい。反乱を起こしては圧倒的な力につぶされていた。時代が悪い時、人の心に湧き起こるのは、あの栄光の時代を取り戻したい、という願いです。神は力強い救世主を送り、国はもう一度繁栄するんだ。イスラエルを再び偉大な国に!(Make Israel great again!)
 ペテロ達にとって偉大な指導者こそがメシア、ローマを倒し国家が繁栄することこそが救い、福音、神の国でした。ですから、苦しみ、捨てられ、殺される救い主は、救い主ではないのです。

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:4~5)
 一方で、イエスが差し出す救いは、「私達の病を負い」、「私達の痛みをにな」い、「私たちのそむきの罪のために刺し通され」、「私たちの咎のために砕かれ」たのは、イエスの打ち傷によって、「平安をもたらし」「私たちはいやされ」るため、要約すれば、私達が神を知るため、誰もが自分の力でなく、恵みにより神と出会うためでした。
「するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。」(8:32)
 ペテロはイエス様をいさめる・しかるのです。このいさめる・しかるという言葉(エピティメオー)は、間違わないように警告する。正しい方向に導く、軌道修正するという意味です。(用例:子どもを叱り・盲人バルテマイをたしなめる人々。イエスは暴風をしかり、病をしかり(マルコ4:39)悪霊をしかる。)ペテロはイエス様を自分の考える正しい方向へ導こうとした。「するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」」(マタイ16:22)軌道修正しようとした。イエスの歩もうとする十字架への道を否定していったのです。

 人にはそれぞれ自分にとっての「福音」があります。理想の天国(神の国)があります。貧しければ、豊かになるのが福音、病があれば健康なのが福音です。差別や社会的不平等に苦しんでいれば、その解消を神の国と考えます。伝統的・保守的な価値観(家父長制、性別は男女のみという性理解、中絶の反対、学校での宗教教育、字義的聖書解釈)の実現こそが天国との考えもあります。
 私達の求める救いと、イエスの差し出す救いが、重ならない時・・・私達はペテロのようにイエスを軌道修正させようとするのです。聖書に表されたキリストの言葉と姿に対して、飛ばし読み(嫌なところから目をそらす)、選び取り(都合のいいところだけ読む)、読み込み(自分の願う意味を持たせる)、まるで相撲の決まり手のように、イエス様を土俵の外に追い出そうとする。または、「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか。」(ヨハネ6:60)とイエスを拒むのです。そして、キリスト教のはずが、イエスの道とそれていくのです。

<私達を導くキリスト>
8:33 しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
 イエスもまた、ペテロをしかる(エピティメオー)のです。「弟子たちを見ながら、」ですから、私達にも語られています。ただし「下がれ。ペテロ。」ではなく、「下がれ。サタン。」です。ペテロの存在や人格を否定しているのではありません。キリストを十字架から引き下ろす、私たちの歪んだ性質をしかりました。イエスの道に導こうとしたのです。

 イエスの言われた「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」とは、自分の感情や心を否定したり、意思や思考を放棄することではありません(そういう教会は、信徒が牧師や教会に操られやすくなるので注意)。
 イエスに対して、迷っても、戸惑ってもよいのです(弟子たちもできなかったのです)。イエスは、繁栄や快適さではなく、苦難や乏しさを通るとしても、十字架についてでも、痛む人や悲しむ人に寄り添うことを、私達が救われることを求めました。イエスの道への、葛藤を感じつつも、そのイエスの歩まれた姿、歩まれた道から目をそらさないことが大切です。

 確かに、もし大きな痛みの中にいたなら、余裕がありませんから、とにかく目の前の問題、痛み、悩みの種を取り除いてくれ、と言うかも知れません。健康があれば、仕事があれば、良い人間関係があれば、問題の全てが解決し、あふれるほどのお金があれば、どれだけなぐさめられるか。

 でも、一つだけ忘れないで欲しいのです。「キリストは何のために十字架に架かったのですか?」

 このようにも聞きます。キリストを信じて・・・仕事がうまくいきました。受験に成功しました。家族や健康の問題が解決しました。人生が良い方向に向かいました。確かに間違ってはいません。神様は全能ですから、実際的な面でも助けてくださる場合もあります。しかし、そのことで、いわゆる幸せの多寡で、あなたへの神の愛を計らないでほしいのです。イエスも、十字架の前で葛藤なさった。それでも。私達の愛ゆえに、十字架を選んだのです。
 私達は、いつでも自分に問いたいのです、「キリストは何のために十字架に架かったのですか?」何のためにクリスマスに、神が人となって生まれ、貧しくなり、苦難の道を歩み、むち打たれ、あざけられ、十字架を担ぎ、恐ろしい痛みの中で死んだのでしょうか。 


 いろいろな思いが渦巻くときこそ、イザヤ53章をゆっくり読んでみてください。イエスが私達のために十字架を目指してくださったこと。十字架の苦しみを顧みず、私達が救われるための道を選んでくださったことを、思い返してください。インスピレーションという言葉が、「息を吹き込む」、という言葉であるように、神が息を吹き込むかのように、聖書の言葉が深く心に入り、神のあなたへの愛を受け止め、感動が心を満たす時が必ずあります。そして、それを受け止められたなら、私達も、自分の前にあるキリストの道を選び、その後に続いてほしいのです。

 

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