7月19日のメッセージ
2026年7月19日「キリストの福音21」 マルコの福音書
8:27それから、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。その途中、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」8:28彼らは答えて言った。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます。」8:29 するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」8:30するとイエスは、自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められた。8:31それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。8:32しかも、はっきりとこの事がらを話された。
<あなたはわたし(イエス)を誰だと言いますか?>(27〜29a節)
この世界には、私達の生きていくうえで、大切な問いがいくつもあります。
無人島に一つだけ持っていけるとしたら何?今日が人生最後の一日なら何をしてすごす?
病めるときも、貧しいときも、愛し、添い遂げることを誓いますか?人は死んだらどうなるの?
キリスト教においては、今日の問いかけが、最も大切な問いかけです。これは、マルコの福音書の前半と後半に分ける箇所。前半は3年間でガリラヤ地方をめぐり、この問いと答え以降、イエスは十字架にかかるため、エルサレムへ向かい、受難と復活の予告をします。
27〜29節):イエスたちは、ガリラヤ湖の忙しい日々から離れ、ピリポ・カイザリアへやってきます。そこは、ヨルダン川の源流のある地域。そこからガリラヤ湖、さらには死海へと水の流が続く、水源の地。その象徴的な場所で問うのです。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
イエス様は、この3年間、自分は誰かを、その姿を通して、言動を通して、示し続けて、そしてついに尋ねたのです。私が誰かを分かってくれましたか?
イエス様は、その前に聞きました。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」
みなさんの周囲の人は、イエスを誰だと言っていますか?キリスト教の教祖?偉人?道徳家?活動家?思想家?愛の模範? 勘違いしているだけ?
イエスに影響を受けた人は偉大な教師と呼び、ユダヤ教やイスラム教は預言者イエスと呼び、イエスを神と認めない人はナザレ人イエスと呼びます。しかし、イエスを、キリストとは呼びません。それは、信仰の表明だからです。
キリストは、イエスの苗字ではなく、イエスの称号です。キリスト(ギリシャ語)は、ヘブライ語でメサイア、救い主という意味です。イエス・キリストとは、イエスはキリストだ、イエスは神が私達のために遣わした救い主だ、という意味です。この呼び名が、信仰の告白なのです。
そして、ペテロは言うのです。「あなたは、キリストです。」(8:29) 私達の、悩み、悲しみ、怒り、飢え乾き、神へ叫び、助け求め、それらへの神からの応答が、イエスだという意味なのです。
イエス様は、嬉しかったと思います。イエスは、このあと、せきをきったように、ご自分が今まで黙っていた、受難についてはっきりと話します。ガリラヤ湖周辺の3年の旅に区切りをつけエルサレムに、十字架に向かいました。この答えは、イエスの心も、行動も、動かす答えです。
<信仰のかけらを認めるイエス>(29b~30節)
みなさんそれぞれ、イエスを、キリストと呼んだからこそ、この場にいるかと思います。そう言えていることを喜んでいただきたいのです。イエス・キリスト、と呼べることを、小さなことと思っていませんか?ご自分の信仰告白を、心が伴っていたかな?とか、十分理解できていなかったのでは?と疑わないでください。口先だけでなく、もっと何かをしなくてはと思っていませんか?
確かに、それらも大切です。でも、ペテロや弟子たちや群衆を見てください。当時の人にとっての救い主は、強く偉大な指導者で、ローマ帝国の支配に対して、革命を起こしてくれる救い主でした。一方で、イエス様は、私達を罪と死から救う、救い主でした。救いの意味が違うのです。
人々は、イエスが、自分の望む救い主でない、自分の意に沿わないと、手のひらを返し、十字架につけろと叫んびます。弟子たちもです。死と復活の預言を3度(8:31、9:31、10:33~34)するのですが、なんとその全てで・・・そんな事言うな!と文句を言ったり、誰が一番か?と言い争っていたり、私たちに特別な地位を!と求めてきたり・・・最後には見捨て裏切ります。ペテロは、イエスが、キリストであると言いましたが、どんなキリスト(救い主)全く受け止めていないのです。これは私達の姿でもあります。
イエスだって、ペテロの自分勝手で的はずれな心の中を、やがて裏切り、拒絶することを、もちろんご存知だった。それでも、イエスは、ペテロの答えを聞いて十字架へ向かいました。
ペテロが、イエスをキリストと言えたからです。キリスト(メシア)は、神が最後の時に遣わす存在、であり、神から人への応えです。その意味で、ペテロの答えは、この真理にかすっていた。イエスはそれを受け止め、十字架へと向かいました。神様は信仰のかけらを、その小さくかすかな、きらめきを喜ぶ方です。どれだけ愚かであっても、この答えは、神様さえも動かす答えなのです。
その答えのあとで、「するとイエスは、自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められた。」確かに戒めています。けれど、誰にも言わないように、という表現は、いつも奇跡の後で使われてきた表現です。逆に言えば、ペテロの答えは、奇跡であった、神様が特別に働いてくださった、というのです。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」(マタイ16:17)
みなさんも洗礼の前に、ペテロと同じように答えたでしょう。イエスは、私達のその一言こそが奇跡であり、神の特別な介入だと言うのです。「聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」(第一コリント12:3)
そして、それは、私達に救いをもたらす告白です。「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマ10:9)
無知でも、無理解でも、いいのです。私たちが、イエスはキリスト、と言えたなら、それは神の奇跡があなたに起こった、神様があなたに働いてくださった証拠です。それは神からの恵みであり、神にとっての喜びです。
そして、ペテロの言葉を聞いてイエスが十字架へ向かった、神が動いたように、私たちの言葉を聞いて、神が動き、私達を神の子とし、罪を聖め、永遠の命と神の国へと導くのです。
イエスをキリスト、といえる幸いを覚え、新しい週を歩みだしてください。
今週の黙想 毎朝の祈りの中で、今日の問いを、イエスから尋ねられてみてください。
「あなたはキリストです。」と告白してみてください。
