7月5日のメッセージ
2026年7月5日「キリストの福音⑳~私たちの目と耳を開くイエス~」マルコの福音書7章
7:31 それから、イエスはツロの地方を去り、シドンを通って、もう一度、デカポリス地方のあたりのガリラヤ湖に来られた。 7:32 人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるように願った。 7:33 そこで、イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。 7:34 そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ。」すなわち、「開け。」と言われた。 7:35 すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。
<神の憐れみの向かう先>
北中米でサッカーW杯が開催され、地元の人、以前移り住んできた人、世界中から訪れた人、が集まっています。(サッカーファンから言わせれば、目を覆いたくなるような、拝金主義や政治的動きもありますが、それらの思惑を超え、分断が顕著な地において、相互理解や尊重が深まる機会となるように願っています。)
7:31 それから、イエスはツロの地方を去り、シドンを通って、もう一度、デカポリス地方のあたりのガリラヤ湖に来られた。
イエスの時代も、様々な国の人が混ざり合い生きていました。ユダヤ人から見れば、ツロは、外国人(異邦人)の土地です。そして、デカポリス地方は、同じガリラヤ湖畔でも、外国人が多い地域。訪問を避けるべき土地、接触を避けるべき民族であり、禍根、摩擦、不理解、差別意識などがありました。しかし、そのような場所でこそ、そのような人にこそ、イエスの奇跡は起こったのです。(このあとの4千人の給食も、ほとんどの相手は、外国人でした。)
7:32 人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるように願った。
とても似ている箇所が8章にもあります。「イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた。そしてその両眼につばきをつけ、両手を彼に当ててやって、「何か見えるか。」と聞かれた。」(8:23)
すでにあらゆる病を治し、嵐すらも鎮め、パンを増やし、死者さえも甦らせたのに・・・耳や目の癒やしという、一見ややスケールダウンした出来事が、細かい所作までやけに丁寧に記されています。(マルコの福音書は、3年活動を記した前半と、十字架へ向かう後半に分かれ、その間にペテロの信仰告白(マルコ8:29)がありますが、その大切な箇所の前に、この2つの出来事が、丁寧に記されている、これが重要なのです。)
私達は、インターネットやAIなどの科学技術の発展により、世界中の映像や画像を自分の目で見ることができ、最新の情報や多様な意見・知識を耳にすることができ、そして、誰もが、自分の言葉を、世界中に発信できます。
ところが、聖書において人間は(神の契約の民、ユダヤ人ですら!)目があっても見えず、耳があっても聞こえない存在(イザヤ6:10〜13、43:8、マルコ8:18、ローマ11:8)として描かれます。神の奇跡を見ても、神の言葉を聞いても、理解せず、軽視し、身勝手に生きてしまう。聖書で言う、罪や堕落とは、悪事や犯罪ではありません。神(や善)に対して、目が、耳が、舌が、心が、身体が、無力になっている状態を指します。
7章前半で、エルサレムから来た宗教エリート達ですら、イエスの奇跡をその目で目撃し、イエスのことばをその耳で聞いても、決して受け入れず、イエスと対立します。(宗教的でありながら、選民意識や差別意識が強く、閉じた生き方になっていたのです。)
ですから、私達は、目や耳が開かれる必要がある、と聖書は口を酸っぱくして語ります。そして、やがて訪れる救い主・メシアこそが、人々の耳と目を開き、神の国に導き入れる、とされていました。(イザヤ29:18、35:5、マタイ11:15、ルカ7:22)ですから、この奇跡は、イエスが救い主である動かぬ証拠でした。しかし、問題がありました。
イエスが、宗教都市エルサレムで、地位の高い宗教家の家族の目や耳を開いたなら良いのです。ところが、救い主であるはずのイエスは、こともあろうに、外国人の街で、ユダヤ人ではなく、外国人の耳を丁寧に開いたのです。
彼らは、人種も、文化も、信仰も異なっています。過去には、血を流し、争った間柄です。宗教行為もしていません。神の国から除外されるべき人々です。けれど、イエスは、彼らの血脈や思想信条を顧みず、宗教行為や、善行も数えず、過去の歴史も考慮せず、彼らを神の国に受け入れてしまったのです。
イエスはいつも個別対応です。高慢な宗教家や、自己義認する人々には厳しく接し、貧しい人や、正しく歩めない人、外国の人には、ひたすら憐れみ深く接しました。祝福は自分たちのためだけのものだと考える人々に、神は言われました。「わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」(出エジプト記33:19)
ですから、私達が神の国に入るために必要なのは、血族、出身、宗教行為、善行、ではない、ただ神の憐れみだけなのです。
また、このような分断の時代だからこそ、立ち止まって考えたいのです。私達が対立したり、理解できなかったり、関心がなかったりする、人を神はどう見ているのかを。(もちろん、問題があっても黙って忍耐しなさい、とは言いません。問題や責任を明確にし、意見を言い、適切な線を引くこともまた、私達の責任です。)神の、恵みは、あわれみは、私達の思いを超えて、届くのです。
<私達に必要な「エパタ」>
最後にお話したいのは、私達もまた、この体験が必要ということです。
7:33 そこで、イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。 7:34 そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ。」すなわち、「開け。」と言われた。7:35 すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。
イエスは、この外国の人を連れ出します。個人的に向き合うためでした。たった一言の言葉でも治せたでしょう。けれど、その人のすぐ近くに立ち、自分の手で、その人に身体的に関わります。
1.両耳に指を指し入れ、2.つばきをして、その人の舌にさわり、3.天を見上げ、4.深く嘆息し、5.開け(エパタ)、と命じた。
聞こえない彼は、その耳にイエスの指を感じました。思い通り動かない舌でイエスの手を感じました。顔の目の前に、彼を見つめ、そして天を見上げるイエスを見ました。イエスの嘆息を肌で感じました。
ある意味、イエスを知ることで、彼の耳は開けていったのです。舌は言葉を持つようになったのです。
宗教団体(ユダヤ教・教会)に属したからでも、経典(聖書や説教)を読んだからでも、宗教行為をしたからでもないのです。(イエスの時代の人々はそれらに熱心でした。)
私達も、ほんとうの意味で、聞くには、本当に良いことを語るには、(教会も、聖書も、牧師も不要とは言いませんが)イエスが必要だと、忘れないでほしいのです。
牧師の会議に行くと、右の前に東洋ローアという働きがあります。手話で通訳している。私が、もう知っているよと、死んだような顔でボーっと聞いているのと対象的に、生き生きと真剣に、耳を(正確には手話を通して)傾けていた。その場面を見て、今日の箇所が思い浮かびました。
「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」ローマ人への手紙10章7節
「聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」(第一コリント12章3節)
キリストと出会い、目と耳が開かれるからこそ、高慢な宗教家や、自分勝手で差別意識に満ちた群衆のような私達のうちにも、信仰が生まれ、深まり、信仰が生きてくる。
このあとの聖餐式もまた、神の恵みを思い返す行為であり、目も耳も心も開かれる行為です。
(それはカルト宗教や陰謀論の言う、真理や真実に目覚める、といった、選民意識的な狭く閉じた生き方とは違うのです)
キリストに目と耳を開かれた人は、見下された人、差別された人、痛みや必要を覚える人に対して心が開かれていくのです。キリストにより、もつれた舌が解かれた人は、高慢な差別の言葉でなく、キリストの憐れみの言葉を語るのです。
日々、祈りの中でキリストによって、群衆から連れ出され、閉じた耳にその指を入れていただき、もつれた舌にふれていただき、キリストの嘆息を顔に受け、エパタという良い知らせを語りかけられながら、生きていただきたいのです。

