5月10日のメッセージ
2026年5月10日おざく台キリスト教会「キリストの福音⑮」 マルコの福音書5章
5:24 そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。 5:25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。 5:26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。 5:27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。 5:28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。 5:29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。 5:30 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。 5:31 そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」 5:32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。 5:33 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。 5:34 そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」
<母の日の起源と精神>
今日は母の日記念礼拝です。19世紀のアメリカ南北戦争の頃、女性たちを集め、敵味方関係なく負傷兵のために医療従事したアンさんという女性がいました。その死後、娘さんが追悼記念会を主催し、アンさんが好きだった白いカーネーションを教会に飾ったことが起源です。日本では、青山学院大学の女性教師たちを通して紹介され、次第に普及していきました。おざく台では、女性への感謝を込めてカーネーションを用意させていただきました。女性は、愛や柔和さや平和を示すのに非常に長けています。まさにキリストのいのちが、女性の言動を通して実現する、受肉(インカーネーション)するのです。全ての女性達に、敬意を表したいと思います。
母の日の起源の話をしましたが、それ以降、今日までも様々な戦争が続いています。戦争に駆り立てる方法は、いつも同じです。敵と味方の2つに分けてしまうのです。相手を人として見ずに、敵として、悪として見るのです。失われた命、奪った命を、数・数字としか見ないのです。
個人として見ずにレッテルを貼る、主語を大きくして一括りにする、そのようようにして、自分に都合が悪い人を、悪人扱いする大統領がいます。自国の問題をあたかも外国人のせいにする政党があります。イスラエル国家の残虐行為さえ、全て正しいとする国家や教会があります。物事を単純に、安易に、0か100か、白か黒か、善か悪か、敵か味方か、に分け、片方を完全に肯定し、片方を完全に否定してしまう。これは母の日の精神とは真逆なのです。
<汚れというレッテル>
今日の場面では、一人の女性が、長血という病を患った女性が登場します。(出血を伴う女性特有の病気だと推測されています。)長血には、2つの問題がありました。
1つ目は29節にあるように、「ひどい痛み」が伴い、12年間心と体をすり減らしてきました。
2つ目は、「汚れた」存在として12年間、社会から人から疎外されることでした。
旧約聖書(レビ記15章25~31節)では、皮膚の異常や、血が出ている状態を、大きな括りとして「汚れ」と理解し、その間は、神事や人前に出ることが禁じられました。「汚れ」は、本来は衛生的な意味や、本人の保護が目的で、一時的な状態を指しました。しかし次第に、宗教的「汚れ」という理解が一人歩きし、神の前にふさわしくない存在、宗教的に避けるべき存在とされ、まるでその人の本質のように、その人の全てのように理解されました。
この女性は「汚れ」ていると指さされ、家族・友人・異性とのつながりや絆も絶たれる。そのような阻害や孤独が12年続いたのです。(私達も、括られ決めつけられ、疎外された経験がないでしょうか?または逆にそのようにしてしまったことはないでしょうか?)
加えて「多くの医者からひどい目にあわされ」たとあります。当時は、医者といっても、迷信じみたものも多く、今日の新興宗教と大差ありません。だまされすべてを失い、病は悪くなる一方でした。そんなある日、イエスの噂を聞きつけ、彼女は、最後の賭けに出ました。本当なら、イエスに助けを願いたい。しかし、イエスの周りには人が多くて、誰かに触れずにはイエスの前まで行けない。イエスが、自分を相手にしてくれるかも分からない。そこで、人混みにまみれ、こっそりと手を伸ばしてイエスの着物に触れるのです。宗教的には、周囲の人々を、そしてイエスを汚すことになってもです。
ずっと疑問がありました。イエス様は人の心さえ見抜く方。全てご存知の方。本日の交読文(詩篇139:1〜4)にはこのようにありました。
1 主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
2 あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。
3 あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。
4 ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。
人が何を考えているか、何を隠しているかを見抜き、弟子達やユダがこれから裏切ることすら、分かる方。当然子の女性のことだって分かっているはず。「汚れた女性だ」とサッとよけることも出来た。「応えてやるものか」と力が出て行かなくすることも出来た。でもイエスはこの女性の求めに応じ、彼女に力と心を注ぎ、彼女は奇跡により病が癒やされるのです。
<あなた、としてみるイエス>
イエスは、彼女に触れられた際に「汚れた」とは感じなかった。「力が出ていった」(30節)と感じたとあります。宗教家や祭司ならば「汚れ」た!と怒る。けれどイエスは問題にしない。聖(きよ)いか、汚れているか、正しいか、正しくないか、などという単純な理解では彼女を決めつけようとしなかった。
すべてを知るイエスは、その知識を用いて、この女性が歩み、経験してきた痛みも、感じてきた失望や悲しみも、知ってくれていた。そして、「あなたの信仰があなたを直したのです。」(34節)と言われた。「あなた」としてみてくれるのです。
しかも、ただの情報としてではなく、身をもって知ってくださっている方です。聖書はイエスを「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53:3)と表現します。
イエスは貧しい家に生まれました。父親を亡くし、働いて母や兄弟達家族を支えました。生活の苦労を知っています。この女性は、身体の痛み、孤独の辛さ、裏切られ見捨てられる悲しみを経験しましたが、イエスは恐ろしいむち打ちや、最も残酷で苦痛を伴う十字架刑を経験し、痛みを知っています。誰からも理解されない孤独や父なる神と引き離される家族との別れの辛さを知っています。愛する弟子達に裏切られ見捨てられ悲しみを知っています。非難されたり、笑いものにされたり、その他私達が直面する多くの困難や痛みを、身を持って知る方であり、私達は「神に知られている」(ガラテヤ4:9)のです。
これが大切なのですが、これは、別に彼女が聖人君子のように聖い、完全無欠な心を持っていたからではありません。12年傷つけられ続けたのです。歪んでいて、醜くなって当然です。人やイエスを汚してでも、タブーを犯してでも、自分は治ってやる、それが彼女でした。しかし、彼女の痛みや孤独や悲しみを、身を持って知っているイエスだからこそ、彼女の身勝手な心や行為さえ、頭ごなしに否定せず、信仰と受け止めてくださった。レッテルを貼られていても、完全無欠でなくても、歪んだ心のままでも、私達の神は喜んで私達を受け入れてくださるのです。
この女性は、その場をこっそり、おそらくイエスと反対方向へと立ち去ろうとします。しかし、背後からイエスの声が響きます。「だれが私の着物にさわったのですか。」恐る恐る振り返ると、イエスが振り向いて、見回している。
「恐れ」(33節フォボス)は5章のキーワードであり、引っ込めるとか、撤退する、訴訟を取り下げる、という意味。感情ではなく、姿勢です。彼女は、自分自身を神の前に諦めようとしていたのが、分かります。
だからこそ、イエスは、触った人の事を探しました。もし、彼女がこのまま逃げ去っていたらどうなったでしょうか?体は治りましたが、人に避けられ、だまされ、孤独の中で、傷つき歪んだ心はそのままです。イエスにしたことは、負い目を与え、心をより暗くすることになる。
イエスは、告白の機会を与えました。そして自分に対して、ある意味で罪を犯した女性を咎めず、むしろ称えた。汚れというレッテルを貼られ、人から避けられ、神にも拒まれたと、決めつけられた女性を、神は決して拒んでいないことを、示したのです。
神は良い方で、ちゃんと私達を知り、私達を見てくださる。彼女にしてくれたように、私達を知り、愚かさも、弱さも、醜さも、まるごと受け入れてくださる。だからこそ、自分を諦めず、この詩篇のように、神の前に出てください。
23 神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。
イエスの視点で、自分を、他人を、尊ぶことができますように。

