5月3日のメッセージ

「キリストの福音⑭~あなたの神の神の名は?〜」  マルコの福音書5章

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5:1 こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。 5:2 イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。 5:3 この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。 5:4 彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押えるだけの力がなかったのである。 5:5 それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。5:6 彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、 5:7 大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」 5:8 それは、イエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け。」と言われたからである。 5:9 それで、「おまえの名は何か。」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから。」と言った。 

 

 今日の箇所は汚れた霊に憑かれた人、悪霊に支配された人が出てきます。まるでホラー映画「エクソシスト」のようなこの場面に、多くの人は思います。「これは昔の話だ、誰かの話だ、私とは関係ない。」しかし、この箇所は、聖書の福音(良い知らせ)に関わる大切な箇所です。

 思い返してください、神の国は近づいた(1:15)と宣教を開始したイエスが最初にした奇跡、それは汚れた霊に憑かれた人を解き放つ(1:23〜27)ことでした。

 

<1〜5節>

 前回のお話で、イエスは湖の嵐を沈め、湖の向こう岸、異邦人の住む地域に渡ります。船から上がるとすぐに、汚れた霊に支配された人が墓場から出てきます。汚れた霊は彼に、足かせを砕き、鎖を引きちぎるような力を彼に与えました。しかし、彼自身も、他の誰も、どんな手段も、彼を制御できず、孤立や死を象徴する墓場や山で、自分自身を傷つけていました。

 

 力を与える一方で、その人を支配し、制御を失わせ、自分や人を損なわせる、孤独や死へと向かわせる。中学・高校には、薬物、アルコール、SNS依存への注意を啓発するポスターが掲示してあるのですが、その絵は、今日の場面とそっくりです。

 

 聖書において、汚れた霊、悪霊とは、直接でも、間接的でも、私達を支配し、損なうものの象徴として描かれています。聖書では、悪霊に限らず、様々なものに支配され、それを神のように拝み、歩みが狂った人が多く出てきます。

 偶像を拝んだ旧約聖書の人々が浮かぶでしょうか?彼らだけではありません。取税人ザアカイは富に支配され、人々を苦しめ、孤独に陥りました。マグダラのマリアやサマリヤの女は異性との関係を人生の拠り所とし、自分の体をおろそかにしました。ヘロデ王は地位にしがみつき、家族を含む、多くの人の命を奪いました。宗教家たちは、立場や影響力に目がくらみ、伝統や宗教を拝み、キリストを拒みました。もちろん、悪霊というのも聖書に記されていますが、3~5節の悪霊に直接にでも、間接的にでも支配される私達人間の姿でもあるのです。

 

 そして、聖書においてそれらからの解放者として描かれるのがイエスです。神以外のものに、取り憑かれたり、不当に支配されたり、時に抑圧されたりしている人々を解き放ち、愛と恵みをもって支配する神の元へと導くのです。

 

 ですから、イエスは宣教の前にまず、支配の代表である悪魔の誘惑に勝たれた。イエスの最初の言葉は「時が満ち、神の国(支配・統治)は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(1章15節)でした。もう悪いものに支配されなくていい、神があなたを治めてくれる。というのです。そして、マルコが示す最初の奇跡は、汚れた霊からの解放(1章23〜27節)でした。

 

 もちろん、みなさんは、偶像や、富や権力や快楽の虜にはなっていないかもしれません。しかし、宗教改革者達は言いました。「今あなたが、心をつなぎ、信頼を寄せているもの、それがほんとうのあなたの神(偶像)なのである」(宗教改革者ルター)「人間の心(頭)は、まさしく偶像を作りだす工場である。」(宗教改革者カルヴァン)

 

 キリスト教はよく、快楽、他宗教・酒タバコなどの嗜好品・快楽・反キリスト教的文化、などを偶像礼拝・悪霊崇拝だと安易に否定してきましたが・・・・

 人物・地位・経歴・称賛・健康・SNS・人間関係・資産・容姿・祖国・団体・思想・信条・伝統など本来良いもの、教会や信仰でさえも、まるで神のように、私達を支配しうるのです。

 

 黄金のたとえ話。「彼が黄金を所有していたのか、黄金が彼を所有していたのか?」神に向けられるべき愛や心が、神による被造物に向けられている。アウグスティヌスはそれを「転倒した愛」と呼びました。ポイントは、神様の愛を妨げてしまうことです。

 

<6〜9節>

5:6 彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、 5:7 大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」 

 この悪霊に憑かれた人は、イエスに、7節で「いったい私に何をしようというのですか。」

と言います。これは私に関わらないでください、という意味で、聖書で用いられています。

 イエスが神だとわかる、ひれ伏しもする、自分の拝む偶像のことだけは放っておいてほしい、密かな自分の支えだけは見逃してほしい、こう願ったのは、この人だけでなく、アウグスティヌスというキリスト教最大の神学者でもあり、私達でもあるかと思います。

私達を支配するものの名は?私が密かに拝み、支えとする、私達のレギオンは何でしょうか?神学校では、霊性という授業があり、自分がいかに神以外のものに従い、支えとし、動機としているかを、牧師になる前に向き合うのです。

 

5:9 それで、「おまえの名は何か。」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから。」と言った。 

 (文学のゲド戦記などでもありますが)古代においては、名を聞いて、それを支配する、という考えがありました。イエスが、悪霊の名を聞けた。それはイエスの力の証でした。そして、イエスが、悪霊に支配されたその人を、けっして放っておかないという証拠です。

 

 前回のお話で、イエスは船に乗りました。そしてやってきたのは、ユダヤ人にとっての「向こう岸」、ゲラサ人の地でした。ユダヤ人が避ける豚を飼っていることから異邦人の地だと分かります。ユダヤ人が嫌い対立していた異邦人です。その中でも、問題となっていた人。しかし、イエスは荒れた湖を通ってでも、この人に会いに来たのです。

 また関わり方も特別です。イエスは基本的に求められることに応じます。求めがなければ応えません。けれど、この人の場合には、相手が拒むのに関わる。なぜなら、イエスにとって、放っておけないことだからです。

 イエスは、人が神以外のものに支配され、自分や他人を傷つけ滅ぼしていくことを悲しみます。そしてそれ以上に、私達が憐れみの神に支配されることを、何より願うのです。

 

 イエスは、宣教の第一声で、神の国は近づいた(1:15)と、言いました。天国、神の国とは、場所ではありません。国と訳されるギリシャ語のバシレイアとは、支配や主権という意味です。

「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配(ギリシャ語でバシレイア、国と同じ言葉)の中に移してくださいました。」 コロサイ人への手紙1章13節

 イエスは、神の愛を妨げるあらゆるものから私達を解放し、神の愛に憩わせることです。

 

 一方で、気をつけてください。今日の場面より、綺麗さっぱり、悪や罪を追い出されなければ、神と出会えない、自分はだめだ、そう思う人がいる。でも、聖書は、全体的に読むのです。

 しかし、自分は完璧だと、高慢になる、人々を差別し抑圧する宗教家にイエスは言いました。「取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。」(マタイ21章31節)

 取税人や遊女は、貧しく、スネには傷があり、人とのトラブルや遺恨、罪や未解決の問題も、たっぷりと抱えていた。それでもイエスは、彼らは、神の国に入っているといった。つまり、神が彼らを支配してくれている。彼らは神の愛の手の中にあると宣言したのです。

 問題の有無ではない、何が私達を支配しているかが大切なのです。

 様々な欲望と戦ったアウグスティヌスは、私達は問題は、欲望が強すぎるのでことではなく、神への欲望が弱すぎることが問題だ、と記します。偶像・悪霊・罪から努力して離れる以上に、それらが恐れるイエスに近づくことが大切。依存しないのでなく、より良い依存先を持つのです。

 彼はこうも言いました。「神を愛せよ、その後に、汝の欲することをなせ。」神に心を向け、神に導かれる、問題や弱さがあっても、神に向け、神の国を、神の支配を生き続ける、それが信仰者の歩みです。

 

 「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」 コロサイ人への手紙1章13節

 私達はもう、キリストの支配の中に、神の国にいるのです。いつでも、それを受けられる。そして、私達は、何者にも支配されず、それらを正しく扱うことができるのです。

 

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