毎日の聖書8月19日〜
おざく台教会毎日の聖書 8月19日~
1日1章の聖書通読を用意しました。短い励ましの言葉と、それに沿った聖書から神様の言葉を添えました。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。
8月19日(月)テモテへの手紙第二 4章
7〜8節「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」
パウロにはパウロの「走るべき道のり」がありました。私たちの眼の前にもそれぞれの「走るべき道のり」があります。もしかしたら、その道は、目立たず、地味なものかもしれませんが、パウロと同じように神が与えてくださった「走るべき道のり」です。今日もそれぞれの場で、神と人とに仕えて歩め(走れ)ますように。
8月20日(火)テトスへの手紙 1章
16節「彼らは、神を知っていると口では言いますが、行いでは否定しています。」
信仰深く見られようと振る舞っても、敬虔さを装い罪と傷だらけの自分を隠しても、私たちは疲れ果てしまいますし、周囲の人はすぐに見抜きます。
私たちは偽物でいることに疲れ果てたのです。本物でいたいのです。どうか神様が私たちの心を、考えを、言葉を、生き方を、キリストの似姿へと造り変えてくださいますように。
8月21日(水)テトスへの手紙 2章
4〜5節「そうすれば、彼女たちは、若い婦人たちに向かって、夫を愛し、子どもを愛し、慎み深く、貞潔で、家事に励み、優しく、自分の夫に従順であるようにと、さとすことができるのです。それは、神のことばがそしられるようなことのないためです。」
これは当時の文化状況の中で語られており、女性に家事を強いるための聖書の言葉ではありません。大切なのは、信仰と日常の生活とは切り離されていない、ということです。信仰とは宗教行為だけではなく、日々の仕事や務めに、夫婦や親子の関わりに、他の人への接し方や言葉かけに、具体的な形として現されます。「What Would Jesus Do?」(イエス様ならどうするだろうか?)今日一日問い続け、日々の生活に、あなたの信仰を表現してみてください。
8月22日(木)テトスへの手紙 3章
5節「神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。」
私たちは日々努力をすべきです。誠心誠意を尽くして、正しくあるべきです。与えられた才能を無駄にせず豊かに発揮すべきです。
けれど、それは、神に認められ、愛され、救われるためではないのです。それらはあくまで神に愛された結果です。神の大きな憐れみへの応答なのです。
わたし達は、愛され救われるために善い行いに歩むのではなく、愛され救われたからこそ、善い行いに歩むのです。
8月23日(金)ピレモンへの手紙
17節「彼を迎えてやってください。」
主人ピレモンに損害を与えた奴隷オネシモは、不思議な導きでパウロと出会い、信仰へと導かれました。主人であるピレモンは、奴隷オネシモのいのちを奪う権利も有りましたが、パウロは、オネシモを赦してやるようにと、パウロはあの手この手で願います。あなたには赦せない人がいますか?(この場合オネシモは心の底から反省しているのです。)あなたへのパウロからの、いやキリストからの手紙として、もう一度読んでみてください。
8月24日(土)ヘブル人への手紙 1章
3節「 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。」
神様を信じ、聖書を読みつつも、歴史を通し信仰者は聖書を曲解し、虐殺を、迫害を、差別を正当化して繰り返してきました。まるでキリストの生き方と正反対です。神の性質は、キリストの愛と憐れみのすがたにこそ完全に現れているのです。
では、あなたはキリストに似ていますか?人はあなたの内にキリストを見ますか?今日一日、キリストの歩みを追い求めてください。
8月25日(日)ヘブルへの手紙第 2章
9節「イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。」
以前「キリストへのNoは、世界へのYesである」という言葉を聞きました。十字架の死はすべての人のためのものです。あなたが今日出会う全ての人は、神さまが愛してやまない大切な人なのです。