7月7日のメッセージ

おざく台教会2024年7月7日「たましいの糧⑧」

 

<聖書>コリント教会への手紙第一8章

1 次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。2 人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。3 しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。

<ファミリータイム>

創世記1章31節:神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

 

人は、約37兆個の細胞からできているとされます。その細胞一つ一つには核があり、その中に遺伝子、DNAが入っています。(遺伝と言えば、遺伝の法則を発見したメンデルが有名ですね。彼は司祭でした。)この遺伝子に記された情報をもとに、私達は、母の胎の中でのたった1つの細胞から、約37兆個へと適切に分裂し、今の私達へとなりました。さらに続けて新しい細胞が作られ、今の私達が保たれているのです。また、遺伝子には身体の特徴だけでなく、脳の特徴も記されており、私達の頭・心・人格にも深い関わりがあります。

この遺伝情報は、隣の人とは、99.9%は同じだそうです。(ちなみにネコは90%)けれど、ほんの0.1%かそれにも満たない違いが、私達の容姿や、知能、身体能力、体質、病との関わり、などの違いを生み出し、この違いが私達の心を揺さぶるのです。

たしかに私達は隣の人とは違います。遺伝子ではわずか、0.1%でも、姿形から全く違います。誰もが、自分とは違う他の人に憧れたり羨んだり、または、違いに戸惑ったり、否定的に見たり、低いものとして見たり、という経験があるかと思います。

 

けれど、聖書は、一人ひとり違う私達に対してこう語りかけます。神は違う私達を見て、『非常に良い』、と言われました。他の誰かだけではない、私達一人ひとりを見て、『非常に良い』と言われたのです。神から『非常に良い』と言われていない人など、一人もいないのです。

生物はシビアです。例外はありますが、基本的には弱肉強食、適者生存、非常に効率的です。(例えば、紅葉も、栄養を作れなくなった葉っぱから栄養を最後まで搾り取り、落葉として切り捨てる意味があります。) では、わたし達はどんどん効率や有用性を基準に互いを切り捨てるのか。違うのです。人として生きるというのは、「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。」(創世記1章31節)という神の言葉を受け入れ、自分を、人を、『非常に良い』存在として、尊び、大切にしていくところにあるのです。

そして、今の私達を作り、これからのわたし達をつくり出すのは、遺伝子だけでなく、どのように歩んだかです。この神の言葉を宝とし、安心と自信を持って、日々を歩んでください。

 

<メッセージ>

今日、ファミリータイムでは、遺伝子レベルでも違いがあるというお話をしました。それに加えて、育った家庭や地域の状況や境遇、経済、文化、思想・信条、宗教などの違います。更に視野を広げれば、言語や国籍、宗教なども違います。

違いがあると、どうしても戸惑いや対立が生まれます。違いを見て、優劣や順位を考えます。違いは必ずあるのです。同じであるわけないのです。大切なのは、違いを持った人とどう向き合うかです。(『違いはけっして間違いではない。』のです。)

 

今日も、民族、人種、宗教、思想、信条、それらの違いを理由にした、対立が多く起こります。違いを許容できず、より対立的、差別的、攻撃的な意見がなるようです。聖書の中でそれをしてしまったのがコリント教会でした。社会的な地位(裕福な人と貧しい人)や、考え方、民族(ユダヤ人とそれ以外)の違い、などにより、対立、敵対、差別、が起こっていたのです。

 

ちょっと説明が必要なので、お付き合いください。ユダヤ人は、異教の神々を拝むことを偶像礼拝と呼び、避けていました。偶像に捧げられた肉を食べるというのは、古代では、異教の神々の祭りに参加し、人間を犠牲にし(古代のカナン地方)、性的奔放を楽しむことなどを意味したのです。(仏式のお葬式に参加しお線香をあげる、鳥居をくぐる、とは意味合いがかなり異なるのです。)

さて、ローマ帝国の時代になり、コリントの街にも神殿があり、捧げられた肉は余るため、裏の肉屋で売られていました。人の家に呼ばれたりすると、神殿で捧げられ売られた肉の場合もあったのです。

 

一部の人は、古代と今(紀元1世紀)とは状況が違う、神は唯一なので他の神々は実際は存在しない、そう割り切って、肉を食べました。一方で、ユダヤ教の背景が強く、肉を食べることに不安を感じている人もいました。使徒パウロは食べても問題ないと同じ章で言っています。けれど、一部の人達は、自分たちの正しさを誇り、これみよがしに食べて、食べることに不安を感じる人を見下していました。正しい知識が、差別や対立を生んだのです。

パウロは、それで、今日の箇所、「1 次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。2 人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。3 しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのです。」と伝えます。

食べても大丈夫だけど、心配に感じる人を配慮して、自らは肉を食べない、と言ったのです。正しさや知識を大切にするパウロが、正しさよりも、知識よりもさらに大切なことがあると言い、保守的な立場を取りました。見下されている人に寄り添ったのです。

 

一方で、イエス様は、保守的と言うよりは、改革者のイメージです。罪人と言われ嫌われた人と食卓を囲み、汚れていると避けられていた人に触れ、問題や痛みを抱えた人ほど神に愛されると説きました。宗教的な人、保守的な人、正しさを求める人は戸惑いました。イエス様の場合は、革新的な姿で、弱い立場の人に寄り添ったのです。

 

どちらも大切にしていることは同じです。正しさよりも、大切なことがあるというのです。それは、弱い者に寄り添うことでした。見下され、傷ついた人とともにあることでした。神様はいつも、立場の弱い存在の味方なのです。神様は、正しくない人、問題を抱えた人、見下された人、心を痛める人、傷つき悲しむ人には、徹底的に寄り添うのです。そして、高慢で高ぶる人には、まったくそっけないのです。(そういえば、今日は都知事選挙の日ですね。選ばれる人に期待されることは多いでしょうが、願わくは、弱い立場に置かれた人に寄り添う人であってほしいと願います。)

 

違いは必ずあるのです。ある人は別の人に比べて、知識や、能力や、力や、地位や、財産や、優位性が主張できるようなものを持っています。それら自体はけっして悪いものではない。(パウロ自信もそれらを持っていました。) けれど、それが人を高ぶらせ、大切なものを見失わせてしまうリスクも有るのです。見失ってはいけないもの、それはキリストの心です。

 

聖書が違いを超えて、人を尊ぶ理由それは、キリストがその人のために十字架で死なれたからです。パウロは見下され、戸惑う人を兄弟と呼び、「キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。」(第一コリント8章11節)と言います。

別の手紙にはこうあります。「キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。」(ローマ14章15節)

 

わたし達は、わたし達と違うその人は、神が心を込めて創造し、『非常に良い』と言われた人であり、キリストがその人のために十字架にかかった人です。

 

青山学院大学の宗教部長である、塩谷直也教授が『LGBTとキリスト教』という著書の中で、このように記していました。 「移り分かる時代の中で最も大切にすべきもの、キリスト者にとっての『憲法』とは何かを問い続けてきました。そしてその答えはいつの時代も「イエス・キリストの存在とその言動」であると確認してきたのです。そのイエスが私たちに語りかけます。・・『あなたの神である主を愛しなさい。』・・『隣人を自分自身のように愛しなさい。』」

キリストがわたしのために、そして、その人のために十字架にかかった、その事実をわたし達は重く置け止めなくてはなりません。

 

もちろん、自分にも、人にも、違いはあります。誤りもあります。それは認めたり、指摘してきたりすべきです。でも違いは決して間違いではないのです。むしろ豊かさなのです。そして、神に非常に良いと言われていること、キリストが十字架で死んでくださったこと、という大切な共通点が有るのです。

今週一週間、自分と向き合う時、わたしとは違う誰かと向き合う時、神はわたしを創造し、キリストはその人のために死なれた、ということを覚えて歩んでください。あなたは神が非常に良いと言われた大切な人であり、あなたの隣の人は、キリストが文字通り死ぬほどに愛した神様の宝です。

 

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