6月30日のメッセージ
おざく台教会2024年6月30日「たましいの糧⑦」
<聖書>
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」コリント教会への手紙第一6章20節
<ファミリータイム>
みなさんは、毎日を懸命に生きておられると思います。自分の毎日を責任を持って生きる、とても大切です。でも、同時に、忘れないでいたいのは、私達は一人で生きているのではなく、生かされている、ということです。
中学の生物では、動物や植物を学んでいます。動物と植物の違い、なんと説明しますか?大きな違いは、光合成が出来るか、自分で栄養を生み出せるかどうか、という違いです。
私達動物は、栄養やからだの材料(有機物と言います)を自分で作り出すことはできません。それが出来るのは植物だけです。動物は、植物や、それを食べた他の生き物を、摂取することで、栄養やからだの材料を手に入れています。(ですから、私達は従属栄養生物と呼ばれます。)
さらにもとをたどるなら・・・植物は、太陽の光のエネルギーを利用して光合成をしています。太陽のエネルギーを有機物の中に蓄えているのです。また、植物は酸素も出してくれていますよね。私達は太陽の光を与えられ、空気も、水も、与えられて生きているのです。
今日の聖書の言葉が浮かびました。「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイの福音書5章45節)
私達は、神と関係ないと思って生きている、気にしなくても、忘れてしまっても生きていける。けれど、私達は、生かされている。神は私達の状態によらず、太陽を昇らせいのちのための光を注ぎ、恵みの雨を降らせてくれる。神は私達を気にかけ、片時も忘れない、そう聖書は教えてくれます。
自分の人生を生きる感覚はとても大切です。でも同時に、私達は、自分だけで生きていると、高慢になってしまったり、逆に、孤独を感じることが有るかもしれません。けれど、私達もまた生かされていること、気にかけられていることを、どうか忘れないでいたいのです。
<メッセージ>
今日のファミリータイムでは、私達は生かされている、与えられている、というお話をしました。幼稚園の食育では、「いただきます」という言葉には、用意してくださったご家庭やお店への感謝とともに、他の生き物の命をいただくという意味もある、と教えます。
また、キリスト教系の幼稚園では、子どもを天から預けられた存在、として、受け止める園も多くあります。こどもたちは親のものではなく、教師のものでもなく、国のものでもなく、天のものである、だから、握りしめず、支配せず、その子らしく自分で歩みだす日まで、大切に関わるのです。(子は授かりもの、少し変えて、子は預かりもの、とも言われます。)
聖書の中でも、主人がしもべに、たくさんのものを預け、それを良いことに使うようにとたのみ、旅に出ていく話があります。(マタイ25章)
聖書は、私達は決して一人で生きているのではなく、生かされ、与えられ、預けられ、任されている、と教えます。その感覚は、高ぶりがちな私達を謙遜にし、自己中心になりがちな私達に思いやりの心を育み、自堕落になりがちな意思に責任感を与え、寂しさを感じる心をあたため安心を与えてくれます。
一方でそれを忘れてしまったのが、コリント教会の一部の人でした。
自分こそが絶対だと主張し、教会の中は争いばかり、貧しい人や弱さを抱えた人を見下し、ないがしろにしていました。一方で、快楽が溢れる街コリントで好き勝手な生き方をしていました。(立場のある政治家が、威張り散らし、派閥争いに明け暮れ、立場の弱い人を差別し、夜な夜な遊び歩く、イメージでしょうか)人も自分も大切にできない高慢な人、そんな人達から見下され傷つけられ、隅に追いやられていた人、そんな人達で教会が溢れていたのです。
使徒パウロはそんな教会の状況を悲しみ、この手紙を書いたのです。コリントと私達とは状況は違うかもしれません、けれど、私達も、コリント教会の高慢な人たちのように、自分一人で生きているように錯覚し、自己中心で視野が狭くなったり、逆に、コリント教会の傷つけられた人たちのように、居場所がなく、孤独で、心細く感じるかもしれません。
パウロは大切なことを見失った人々にこう語ります。
「あなたには、何か、もらったものではないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。」(4章7節)
使徒パウロは、生かされていることを忘れた人々に、自分がどれだけ受けたか、どれだけ思われているのかを思い起こさせるのです。いのちも、からだも、時間も、環境も、力も、神から与えられたもの、いえ、恵みとして贈られたものと説きます。
ここまでならみなさんも納得できるかもしれません。このあとに不思議な言葉が続きます。
「あなたがたのからだは、・・・もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」(6章20節)
もちろん生るのは私達です、けれども、生き方を変えなさいと言うのです。神があなたのために大きな犠牲が払ったのだから、もう自分勝手に、自己中心に、自堕落に生きてはならない、そうコリントの人々を、そして、私達を励ますのです。
その犠牲について、別の手紙でこう記しています、「キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。」(ローマ14章15節)
パウロは私達を指して、「キリストが代わりに死んでくださったほどの人」と呼ぶのです。「死ぬほど大切」という表現がありますが、キリストにとって私達は、身代わりに死ぬほど自分の命を与えてもかまわないほど、大切な存在なのです。
キリスト教では、キリストはすべての人のために十字架で死んだと教えます。逆に言えば、キリストが大切にしなかった人などいない、パウロが、「キリストが代わりに死んでくださったほどの人を・・・滅ぼさないでください。」(ローマ14章15節)と言うように、滅ぼされていい人など、ミサイルを打ち込まれ瓦礫に埋もれてもいい人など、言葉で傷つけられたり、存在を否定されていい人など、一人もいないのです。
生きていれば、自己中心になったり、視野が狭くなるときもたしかにあります。けれど、そんなときこそ、あなたを日々生かす神がいて、あなたに良い歩みをしてほしいと、たくさんのものを任せてくださる神がいることを思い返してください。誰かや自分を大切に出来ない時、その人やあなたのために死なれたキリストがいる、私達はそれほどまでに思われ、願われ、期待されて存在しているのだ、そのことをどうか忘れないでください。私達は愛されたから愛することが出来、受けたから与えることが出来、生かされたからこそ、誰かの生きる一助となることも出来るのです。
先日亡くなられた星野富弘さんという画家がいます。教師をしていましたが、事故で全身が動かなくなり、口でペンを持ち創作をなさっていました。たくさんの葛藤があったことは、その著作からうかがい知ることが出来ます。星野さんは「生かされて」という言葉を用い、しなやかに生き続けました。
私はけがをして、「死」と枕を並べて寝ているような時期もありました。でもこうして生かされて、今、いのちが与えられている。ですから、神様に「死ぬという仕事」を与えられるまで「生きるという仕事」をしっかりさせていただきたいと思っています。せっかく生かされたいのちです。しまい込まず、使い込んで良い味が出るまで、思い切り使っていきたいと思っています。
私達も、愛され、生かされ、与えられ、預けられたものとして、誇りと安心を持って、毎日を歩んでいきたいと願います。あなたは、隣の人は、キリストが代わりにに死んでくださったほど、大切な方です。