毎日の聖書6月24日〜

おざく台教会毎日の聖書 6月24日~

1日1章の聖書通読を用意しました。短い励ましの言葉と、それに沿った聖書から神様の言葉を添えました。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

6月24日(月)コリント人への手紙第一11章  
27〜28節「もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。」
 キリストの身体と血を象徴するパンとぶどう酒を受ける聖餐式(そして食事の交わり)は初代の教会から大切にされてきました。けれどふさわしくないままでパンを食べることに、パウロは注意します。この「ふさわしくないまま」を、罪や問題を抱えていること、と理解し、一定期間、聖餐式を受けさせない「配餐停止」という制度がある協会も存在します。
 本当でしょうか?キリストは罪人と食卓を囲みました。罪人のために十字架にかかりました。聖餐式は他のだれでもなく、罪人のためのものです。では、「ふさわしくないまま」とは何でしょう?それは高慢と自己義認です。パウロは、高慢になり、貧しい人を見下し片隅に追いやるコリントの人々の姿を指して「ふさわしくない」と言ったのです。
 自分はダメだと思う方。安心して神の胸に飛び込みましょう!自分は大丈夫と思う方。悔い改め、神の前にへりくだるのです。


6月25日(火)コリント人への手紙第一12章
27節「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」
 あなたはマルチン・ルターとともにキリストのからだです。そこには聖フランシスコも、マザーテレサも、キング牧師もいます。そしてあなたが憎み嫌うあの人も・・・・
 立場や、賜物や、状況は違います。それでも「あなたがたはキリストのからだ」であり、各人それぞれの働き、それぞれの歩むべき道があるのです。人と比べたり、だれかを裁いたりしなくてよいのです。あなた自身の歩みに集中してください。


6月26日(水)コリント人への手紙第一13章
4〜8節「 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、 不正を喜ばずに真理を喜びます。 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。 愛は決して絶えることがありません。」

 神の無限の愛の様々な側面が、身近な表現で語られます。この箇所をゆっくり、3度ほど読んでみてください。あなたは神の愛のどの面を、自分に必要だと感じていますか?今日一日その「愛を追い求め」てみてください。

6月27(木)コリント人への手紙第一14章
33節「神が混乱の神ではなく、平和の神だからです。」

 コリント教会は神から与えられた良いもの(個々人の賜物・立場・聖書・教会)を、自己実現や他者攻撃のため用いました。教会を破壊するのは、外側の迫害ではなく、内側の信仰者、わたしたちの内側の高慢や欲望なのです。
 あなたは与えられた良いものを、平和をもたらすために用いていますか?「平和の神」にいつも聞いて、問いながら歩んでください。

6月28日(金)コリント人への手紙第一15章

20節「今やキリストは、眠った者の初穂としては死者の中からよみがえられました。」

 キリストの復活した出来事は、あなたの復活をも意味します。あなたは罪の生活から、悪への傾向から、過去の傷から、死への恐れから、よみがえったのです。それなのに再び墓へ戻ろうとしていませんか?諦めや、妬みや、怒りや、欲望、それら古い感情の中にとどまっていませんか?もう一度言います、あなたはすでに新しくよみがえったのです。私達は新しく歩むことが出来るのです。

6月29日(土)コリント人への手紙第一16章

22節「主よ、来てください。」

 キリストは2000年前に一度来られ、やがて再び来られます。ルターは言いました。「明日キリストが再び来られるかのように生活しなさい。」私達の言葉だけでなく、私達の生活の在り様もこの言葉を告白しますように。「主よ、来てください。」とキリストを待ち望み、生きることが出来ますように。

6月30日(日)コリント人への手紙第二1章

1節「聖徒たちへ。」

 不品行に分裂、高慢と自己義認にあふれた最悪なコリント教会・・・裁くのは簡単ですが、パウロは神の視点で教会を見つめ、信仰者のあるべき姿を取り戻すように励まします。神は、罪深い信仰者はもちろん、高慢で自己義認するような救いようのない信仰者さえも、諦めないのです。神は同じように最悪な私たちに語り掛けてくださいます。「聖徒たち」よ、と。

 

Top