3月12日のメッセージ

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2023年3月12日「神さまの良い知らせ23〜25〜砂漠の中の光〜」

 

<聖書 マタイの福音書25章>

 31 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。32 そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、33 羊を自分の右に、山羊を左に置きます

 34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。35 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べ物を与え、わたしが渇いていたときに、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったときに、わたしに宿を貸し、36 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

 37 すると、その正しい人たちは、答えて言いま。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。38 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。39 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたづねしました。』
 40 すると、王は彼らに答えて言いま。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

 

<砂漠の中の光>

 三浦朱門さんという作家が記した「砂漠の中の懐中電灯」という文章を読みました。砂漠を旅して、野営地の寝袋で眠るのですが、夜に用を足したくなった。流石に近くでは申し訳ないので、少し離れるために、懐中電灯を握りしめ歩きだす。真っ暗で、目印のない砂漠では、光が頼り。けれど、あとで間違いに気づいた。景色が同じで戻ろうとしても戻れない。砂漠では光を握りしめるのでなく、戻るべき場所に懐中電灯をおいて、その光に向けていつでも戻るようにするそうです。

 これは、私達も同じではないでしょうか?感染症や災害や経済不安の中で、日々の生活で、病やトラブル、仕事・家庭の課題、様々な価値観や情報に振り回される中で、自分自身が何者か、どのように生きていくのか、大切なことは何なのか、見失ってしまうことはないでしょうか?

 イエス様は、私達が、そして教会が、大切なものを見失わないように、砂漠の中の懐中電灯として、今日の話をしてくれたのだと思います。

<私達に問われるもの>

 今日は23〜25章をまとめてお話します。とくに25章の箇所は、最後の審判として、絵画にも描かれます。(バチカンのシスティーナ礼拝堂に描かれた、ミケランジェロの絵)

 もちろんイエス様は、閻魔大王とは違います。天国に入るのは、功徳、善行、悟り、敬虔、貢献によるではなく、恵みにより招かれるのだ(キリストの十字架を信じ罪赦されることだけ)と、イエス様は口を酸っぱくして教えたのです。ではなぜ別の基準でもあるかのような話を?

 当時のユダヤ教も、やがて神がこの世界に介入する最後の審判の時を待ち望んでいました。ただし、神に受け入れられるためには、宗教的戒律を守ること。宗教知識を豊富に持ち、宗教的な生き方をすること。と教え、それが出来る宗教家など一部の人達が自らを誇り、問題を抱えた人、貧しい人、を罪のせいだと見下し、自業自得だと切り捨て、ないがしろにしていたのです。(教会にも宗教家のような冷たい高慢な態度があると、ある人は批判的にキリスト教を「キリステ教」と呼びました。)

 弟子たちもまた、神殿の大きさに魅了され(24:1)、宗教的な貢献・献身を互いに誇り合うしまつでした(19:27)

 そこで、イエス様は、23章では宗教家の愛のなさと高慢さへの非難、24章は宗教家が誇る神殿と国の末路を語り(実際にAD70年にエルサレムと神殿はローマ帝国により焼き尽くされます。)、25章で、立派さでも、知識でも、貢献でもなく、神が本当に私達に求めているものは何かを語るのです。それは一言で言えば、キリストの心、キリストへの心です。

 25章では、花婿を待つ10人の娘、主人の留守とお金をまかされたしもべ、などの例話があります。そこで問われているのは、花婿や主人への想い、心です。行動の成否や、結果の多少は問われていません。大切にされていたのは、心根です。どのような心で花婿や主人を待ちながら生きていたのか、そこに愛や思いやりはあったのか?イエス様は、宗教家や、弟子たちの、形骸化した信仰を、自己中心な心のあり方を心配したのです

 そして、イエス様は、当時ユダヤ人の中で広まっていた審判のイメージを用い話します。そこで問われるのは、当時考えられていた、社会的地位や、宗教知識、宗教生活ではないのです。人格的成熟でも、宗教的貢献・献身でもありませんでした。

 

40 あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

 そこで問われるのは、当時見下されていた人たち、悲しむ人たち、必要を抱えていた人たちへの心だったのです。痛む人、悲しむ人、乏しい人、孤独な人、見下された人、それら小さい者を放って置かない心こそが、神様の願いでした。そして、実際に最も小さな一人に寄り添ったのは誰でしょう?それは、神でありながら人となり、罪ある私達を自業自得だとキリステず、むしろ兄弟と呼び、友と呼んでくださり、十字架にかかってくださったイエス様です。その心を受けとめ、同じ心であって欲しいと願っているのです。

 繰り返しますが、私達は神に愛され、天国に受け入れられるために、善行に励むのではありあせん。私達はすでに神に愛され、天国に受け入れられているから、どれだけ小さくても人を愛するのです。マザーテレサさん(インドでの死を待つ人の家)、中村哲(アフガニスタンでのペシャワール会)さんと比べれば、ほとんど何も出来ていない。けれど、私達の心を見てくださる、小さな行為でも喜んでくださるのです。

 小さな者、悲しむ人、痛みを抱えた人の愛は、キリストの心に、神との関係に私達が生きているかのリトマス試験紙、砂漠の懐中電灯です。

力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。箴言4:23

 私達は、神に何かを差し出すことで愛されるという交換条件の宗教から抜け出したいと思います。愛の欠けた自分であって良いのです。私達は、神から無条件に何を受け取るか、が大切なのです。まず受けたからこそ、隣の人に、必要を抱えた人に、分け与えることができるのです。

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