2023年1月29日のメッセージ

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2023年1月29日「神さまの良い知らせ17〜求めるのでなく、与える神〜」

 

 

<聖書 マタイの福音書17章>

1.それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。2.そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。3.しかも、モーセとエリヤが現れてイエスと話し合っているではないか。4.すると、ペテロが口出しして・・5.彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした。6.弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。7.すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない」と言われた。・・・

 

<交換条件に犠牲を求める宗教>

 受験の季節ですね。私は大学受験前に神頼みに近所の神社仏閣へ行き、賽銭箱に5000札を投げ入れて、合格をお願いをしたことがあります。(後で10000円ならば・・と後悔した記憶があります。)

 お願いをするには、何かを差し出さなくてはならない。犠牲を払うことによって、神の好意や祝福を受けることができる。その犠牲が大きければ、大きいほど、報いも大きくなる。キリスト教に出会う前の私はそういった交換条件のような考えを神に対して抱いていました。

 

 受験の時のお賽銭ならまだ微笑ましいのですが、宗教がそのような心理を利用し、お金や、時間や、労力や、生活や、将来を捧げることで、家族やこどもを犠牲にしてでも、それらを差し出すことで、「救われる」、「天国に入れる」、「幸せになれる」と教え、搾取するというのが問題になっています。(カルト宗教だけではなく、免罪符や、過度な奉仕など、教会も行ってきたのです。それはこどもを犠牲に捧げることを求めたカナンの宗教とどう違うのでしょうか?。)

 

 カルト問題の報道を見ていると、お一人おひとりは、純粋で、まっすぐで、真剣で、きっと良い方々なのだと思います。問題は教える側なのです。教えられている内容が、どれだけ聖書に似せていようが、良い知らせではない、福音ではないのです。本当の神さまは人の犠牲を喜ぶ方ではなく、喜んで自らを犠牲にする方なのです。

 

<イエスを神と知る体験>

 イエス様は、山の上で、姿が変わります。どなたも美術の教科書で一度は目にしたでしょう、ラファエロが描いた「山上の変容」の場面です。その神々しい姿、旧約聖書を(律法と預言者を)代表するモーセとエリヤが現れます。イエス様の本当の姿が、人となられた神であることが、はっきりと示された場面です。

 けれど、「ペテロが口出しして・・・」(4節)、3人のために3つの幕屋を立てると言うのです。イエスを、モーセ、エリヤと同じ「立派な人」として扱うのです。

 ですから、神さまは「彼がまだ話している間に」(5節)光り輝く雲で包み、天から「これは私の愛する子、わたしはこれを喜ぶ。これに聞け。」と語りかけるのです。

 

 雲に包まれ、神の声を聞いた、弟子たちは恐れ、ひれ伏し、顔をあげることはできなくなりました。愚かで、身勝手で、不理解であったペテロも、神さまがここまでしてくれて、やっと分かったのです。この方は、神の子だ、ただの立派な人物が救い主として来たのでなく、神ご自身が救い主として来られたのだと。

 

 私達も、生涯のあるタイミングで、このイエスこそが救い主だと、心に、魂に、示される場面が

あるかと思います。徐々に分かった人も、劇的に悟った人もいたでしょう。今まで、歴史上の人物だとか、立派な尊敬できる人、程度にしか思っていなかった方が、神であり、自分の救い主なのだと、知る時がそれぞれにあったのです。神様はペテロに、示し、語りかけてくださったように、私達がペテロのように、愚かで、身勝手で、不理解であっても、それぞれの方法で語りかけ、示してくださる。神はペテロの、そして私達の愚かさにもかかわらず、あきらめず、見捨てず、関わってくださる、良い方なのです。

 

<へりくだり、与える神を知る体験>

 では神であるキリストは、どこにむかったのでしょう?高い王座へ向かい、私達からの捧げ物を求めるのか?いえ、ガリラヤ地方を離れ、エルサレムへ、十字架という最も低い場所へと向かうのです。

 神であるイエスは、何を言うのでしょうか?私たちに命令し、脅し、苦しんででも犠牲を差し出せと言うのでしょうか?いえ、自らの、苦しみを、受難を告知するのです。

「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」(16章21節)さらに人の子は、いまに人々の手に渡されます。23.そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」(17章22〜23節)

 

 先程のモーセとエリヤとの会話も、ルカの福音書によれば、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後について」(ルカ9:31)、十字架での受難について話していたのです。私達の信じる神は、自分のことより先に、私達のことを考えてくださる神なのです。

 

 イエス様が神だと示された時に天から響いた言葉は、イエス様が洗礼を受けた時の言葉がくり返されているのです。「また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」(マタイ3章17節)この喜ぶとは、尊く見えるという言葉です。イエスは神にとって、尊い宝なのです。神と示された神の子イエスが、神が宝とする存在が、十字架にかかるのです。

 人が神のところへ出向いていって、捧げ物や犠牲を差し出すのではないのです。神が人の世界に来られ、十字架にかかり、自らを犠牲として、いのちを差し出すのです。人が神に宝を差し出すのでなく、神の宝であるキリストが、ご自身を差し出すのです。人が自分の子を犠牲にするのではなく、神の子が人のために、十字架にかかったのです。

 

私達が神のために犠牲を払う、すると神が応えてくれる。それは交換条件の「宗教」です。

神が私達のために犠牲を払う、私達はただ受け取る、それは無条件の恵み、「福音」です。

 

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」第一ヨハネ4:10

 

 イエスが私達の見本として、洗礼を受けた時に聞こえた神からの語りかけ、マルコの記録では、「そして天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」(マルコ1章11節)私達がただ信じるだけで、洗礼を受けるだけで、こう呼ばれるためです。

 

 私達の神はこのような、信じられないような神であり、あなたは神に愛された大切な方です。

私達は、神を愛し、隣人を愛し、打算なく仕え、惜しみなく分け与えるように、キリストの歩みに従うように招かれています。けれどそれは、救いの手段ではなく、救われた者の、愛された者の、応答なのです。

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