1月8日のメッセージ

20231月8日『神さまの良い知らせ⑮』 マタイの福音書より

21 それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。22 すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊にとりつかれているのです。」23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです」と言ってイエスに願った。24 しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言った。25 しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言った。26 すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」27 しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」28 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った

 

<ねばならない、さもないと・・、の恐ろしさ>

 マタイの福音書から、聖書が教える良い知らせ、福音について教えられていきたいと思います

 今日、宗教のイメージを聞くと、「◯◯でなくてはならない。」「△△せねばならない。」「☓☓してはならない。」と、義務や禁止ばかりを押し付けてくるイメージがあるそうです。

 本来宗教は、倫理や生きる規範として、期待されていて、ミッション系の学校も好意的に見られています。けれど宗教団体などでは、人間的な都合により様々なルールがあり、「ねばらなない」「してはならない」ばかりが強調され、何かをすること、何かをしないこと、などまるで宗教ルールを守ることが、信仰の全てであるかのような印象を受けるのです。(たしかに旧約聖書には「してはならない」という禁止条項も多いです。けれど原語を見れば、「~する必要がない、~しなくてもよい」、という意味であり、 神を知る者は、悪や罪、虚しいものに走る必要がない、という意図です。)

 

 さらには、「ねばらならない」の後ろに「さもないと」という脅し文句が付け加えられ、決まりを守って生きなければ、正しく信じなければ、もし間違いを冒したら・・・神に愛されない、あなたは救われない、天国に入れない、と教えられ、カルト宗教のように恐れや不安によって私達を縛り、不自由にてしま場合もあります。

 イエス様の時代も同様で、「ねばならない」、「してはならない」といった宗教家の教えるルールを守ることが、神に愛される、救われる条件のように考えられていました。 それらのルールは、もともとは聖書に基づいて、神様を大切にしたいという思いから生まれました。けれど「伝統とは死んだ人間の行きた信仰であり、伝統主義とは生きた人間の死んだ信仰である」という言葉のように、伝統主義、形式主義、律法主義に陥り、神の愛は忘れられ、ルールが神のように祭り上げられました。宗教戒律を守らねばならない、ユダヤ人であらねばならない、問題を抱えていてはならない、など様々な「ねばならない」を理由に、あなたは神に愛されるに値しない、救われない、などと人を差別したり見下したりして、弱さや問題を抱えた人々は神から遠ざけられていたのです。

 そんな時代背景の中で、15章の前半では、イエス様もルールを守らねばならないと宗教家に批判されます。(今の教会や神学校にイエス様が来たら・・・牧師達や神学者達、「真面目」な信仰者達は、イエス様を批判し、異端あつかいするかもしれませんね。)その後で、イエス様は異邦人の地方へとやってきました。ユダヤ人から、この人達は決して神から愛されない、むしろ神に呪われている、と決めつけられていた地域です。そこへ、一人の女性が助けを求めてやってきます。(古代においては)男性よりも立場の劣る女性であり、しかも、家族に問題を抱えています。(神に見放され、呪われたと理解されていました)そんな「ねばならない、さもないと」の世界の犠牲者のような彼女が言います「主よ。憐れんでください。」

<キリエ・エレイソン。主よ、憐れんでください>

 

 ところがイエス様は彼女に冷たい態度を取るのです。必死で求める女性に、「一言もお答えにならな」いのです。弟子たちは女性があまりに求めるので、対応してあげたら?と勧めるのですが、わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていませんと拒みます。女性が助けてくださいと跪いても、子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と突き放します。愛に満ちたイエス様のはずが、まるでユダヤ人宗教家のように、あなたはユダヤ人でないから、と、神に愛されるにはユダヤ人「でなければならない」、と女性を拒むのです。

 もちろん神さまは差別主義者でも、民族主義者でもありません。旧約聖書でも異邦人への祝福が語られています。あえてこのような態度を取り、この女性を通して、表したいことがあったのです。

 そして、イエスの期待に答えるかのように、女性はあきらめずに主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」と、食い下がります。「ねばらなない」を超えて、神の憐れみを、分けてほしいのだというのです。ねばならない」「さもないと・・・」という基準に従えば、自分は神の恵みは受けられない。けれど、神は憐れみの神であり、その憐れみは広く、深く、大きく、人間の思いを超えて、自分にまで届きうるのだと言うのです。

 イエスは女性の話を聞いた途端に「ああ」と感嘆の言葉を述べ、「女の方」という特別な表現を用い、女性の信仰を「偉大だ」と褒ました。(ちょっと芝居がかっていると言いますか、さあどうだ!とこの女性を周囲に見せるかのようです。イエス様の喜ぶ姿が目に浮かびます。)

 

 これが神さまの喜ぶ信仰です。この女性は「私の正しい行いや理解を見てください」でも「私の敬虔さにご褒美をください」とも言いませんでした。ただ「私を憐れんでください。」と言ったのです。

 人々の中で蔓延していた、「ねばならない」、「してはならない」「さもないと・・」という交換条件のような宗教を超えて、この女性は「主よ憐れんでください」と、神さま憐れみの大きさに期待したのです。「事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」(ローマ9:16 )

 私達は、自分の宗教的な行動、犠牲的態度、正しい理解、そういったもので救われるのでないのです。何かを差し出してご褒美をもらうのではないのです。ただ、神の憐れみにより、恵みを受ける、これが人間の宗教、とは違う、神様の福音です。

 そして、憐れみを受けたからこそ、神と人を愛し、悪を避け、受けるより与えることを、仕えられることより仕えることを選べるようになっていくのです。この順序をどうか間違えないでください。

 

 幼い頃、祖母に連れられてはじめて教会に行った時、不思議な言葉を聞きました。キリエ・エレイソン、と参加者が唱えるのです。それは今日の「主よ、憐れんでください」のギリシャ語でした。これこそが信仰の言葉であり、歴代の信仰者たちが唱え続けていた大切な言葉です。 

 私達は、神さまの憐れみによってこの世界に生まれました。主よ憐れんでください、と言って罪をキリストに被せ神の子となるのです。たとえ大きな罪を犯しても、主よ憐れんでくださいと言って、赦しを受け、聖餐に預かるのです。やがての日も、主よ憐れんでください、と言って天国の門を通るのです。

 

 私達が憐れみを受けるもので、その憐れみを隣人へと流すものでありますように。

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