12月25日のメッセージ

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202212月25日『クリスマスの良い知らせ④』 マタイの福音書より

2:11 そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。

 このクリスマスは、(クライスト/キリスト+マス/ミサ礼拝・聖餐)、つまり、キリストを礼拝する日、キリスト拝む華やかに盛り上がる日でなく、静まって伏し拝む日です

 この拝むとは、元のギリシャ語キス・口づけの対象と言う言葉。愛し、も心も捧げる存在。影響され、心と頭を奪われ、そこに満足や幸せや生き甲斐を見出すのです

 その意味人は自然と何かを拝み、何かを崇拝しているとも言えます。レジャー、アイドル。お金や財産や地位想や価値観、集団や組織。人物や、自分自身かもしれません

 何を拝むかによって、私達の生き方は変わってきます生き方によって、人が本当は何を拝んでいるかが、明らかにされます。私達が拝むものは、人や自分を生かすでしょうか?損なでしょうか?

 日本の国立国会図書館のホールには、キリスト言葉が刻まれています「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」ヨハネ8章32節さらにキリストは言います。わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)そのキリストは、大学でも、お城でもなく、馬小屋で生まれました。ただの奔放や身勝手とは違う、本当の自由へのカギは、飼い葉おけで生まれ十字架で死なれたキリストあるのです。

<自分の常識から自由になり、非常識な神と出会う>

 博士達は、東の国、かつてのバビロニア、現在のイラクあたりからはるばる旅をしてきました。絵にあるような3人ではなく、何十人もの大行列であり、ヘロデ王とも会うことが出来る位の高い人達。そのような人達が、その生活を、時間を、力を、財産を、犠牲にして、拝みにきた。彼らの国にも神や王がいて、彼らには経験や、知恵や、常識や、こだわりがあったでしょう。それが、はるばる旅をして、小さな国の、小さな町の、家ではない馬小屋の、餌箱の赤ちゃんに出会う。常識にてらせばがっかりして帰るか、怒り出すのが普通です。けれど、彼らは目の前の幼子の前にひれ伏したのです。

 私達の持つ、常識、経験、価値観とても大切です。大抵の場合、それらは有益であり、あなたは正しいのかもしれませんけれど、時にそれらに固執するあまりすぐ目の前のキリストに、目と心とが向かない時があるのです。本来良いものであるはずの正しさが、私達の心を不自由に縛り、神と人を愛することを妨げる場合があるのです。

神と出会うとき、人と関わるとき、この博士たちのように、まず先に飼い葉おけの赤子を拝みたいのです

 

「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」ピリピ2:6~8

 幼子を拝むとは、この非常識なくらいの神様の謙遜が、自分のためであったと受け止めることです。それを受け止めて初めて、私達は、自分の常識や価値観を、正しく用いることが出来るのだと思います。

王座から自由になり、十字架のキリストを王座に

2:3 それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。

 ヘロデ王様(BC4年没)は博士たちから王様の場所を尋ねられて、恐れ惑いました。別の訳では「不安を抱」いた。自分以外の王を認めたくない、他の存在にひれ伏したくない、自分こそが世界の中心でいたい。私たちにもある素直な願いだと思います。彼はたくさんのものを建設しましたが、それは自分を誇示したい、逆に言えば自身のなさの裏返しでした。彼はいつも不安であり、妻や三人の息子をはじめ、多くの人を殺しました。自分を批判しそうな知識人たちを全員とらえ、自分の死と同時に処刑するように取り

決めました。そして、自分以外の王を殺そうと、兵士達をベツレヘムへと差し向け、その年齢に該当する男の子たちを皆殺しにします。私が王様でいたい、私こそが礼拝されたい、物事が常に私に都合よく進まないと満足できない、だから自分を脅かすような他の人の存在が邪魔だったのです。これは自由でしょうか?

 「陳は国家なり」と言ったルイ14世は、自分の葬儀で、黄金の棺を用意し、大きなろうそくで照らしました。教会なのに、十字架も、受難の絵でもなく、自分の棺を照らしてまで、自己を示したかったのです。その葬儀で事件が起きました。それまで司式にあたっていた祭司は、黄金の棺を照らすロウソクの前に出ます、そして突然ロウソクの火を吹き消しました。大聖堂は暗闇に包まれます、その中で祭司は宣言して叫びました、『ただ神のみが偉大なるかな!』そして次第に暗闇に目の慣れていった人々の目には、再び十字架やキリストの生涯を描いた絵が映ったそうです。

 自分の王座にしがみついている限り、王冠を頭に押さえつけている限り、神を愛することと、人を愛することはできません。キリストは真逆でした。私達を愛しぬくためにすべてを捨てられた。(ピリピ2:6~8)私達が拝むのはこれほどまでに自由な方です。

 すべてのことを自分でコントロールしたい、自分の思い通りにしたい、そんな私達は、何かを拝むと聞くと不自由に感じます。しかし、6節の「治める」は「羊を飼う・食事を備える」の意味です。「諸人こぞりて」、の英語の歌詞のように(He rules the world with grace and truth)、剣と恐怖でなく、恵みと真理で支配する。キリストは言いました。「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」ヨハネ10章10節。神があなたを縛るのでなく、神があなたに縛られてくださった。私達が神に献身するのでなく、神が私達に、その身も、命も捧げてくださった。これがクリスマスです。

宝から自由になり、宝を生かす

 博士はささげ物をします。3つの宝物はそれぞれ、黄金は王であるしるし。乳香は神であるしるし。没薬は十字架の死のしるし、とされます。ただ、大切なのは「宝の箱を開けて」、とあることです。彼らは、宝を握りしめず、捧げたのです。

 宝は良いものです。人も自分も幸せにできる。しかし時にそれらは、私たちを不自由にしてしまう。だから、握りしめないでそっと手の上に乗せるようにして持つことが肝心です、そしていつでも神様が教えてくださる良い目的のために使う。博士たちの場合はそれが、幼子に捧げることでした。この後、貧しいイエスの一家はエジプトへの逃亡生活を強いられます。それを可能にしたのが、博士たちのささげた宝でした。これがなければ、キリストの教えも、キリストの十字架もなかった。博士たちの宝が、今私達につながっているのです。 

 私達の宝は神から与えられたもの、預けられたものです。あなたの力も、富も、立場も、時間も、握りしめずそっと手に乗せるようにして、神様に聞きながら使ってください。神様が正しい使い方を教えてくれるから。必ず人を生かすために用いる。

 博士以上に非常識で、博士以上に犠牲を払い、博士以上に低くなったのが、私達の神なのですから。そして、宝どころか、命まで手放したのがキリストです。

 祖母の連れられ初めて参加した礼拝、前に十字架にかけられたキリストがあり、皆がひざまずいて祈っていました。立派な王でも、豪華な祭壇でもない、痛めつけられ、十字架につけられ、最も低くされた方を拝む。そこに、本当の自由と、喜びと、救いとがあるのです。

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