11月13日

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202211月13日  マタイの福音書〜神様の良い知らせ⑫〜

<聖書:マタイの福音書12章1〜13節>

7 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』ということがどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、罪のない者たちを罪に定めはしなかったでしょう。 8 人の子は安息日の主です。」
9 イエスはそこを去って、会堂に入られた。 10 そこに片手のなえた人がいた。そこで彼らはイエスに質問して「安息日にいやすのは正しいことでしょうか」と言った。イエスを訴えるためであった。 11 イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうち、だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。 12 人間は羊より、はるかに値うちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことをすることは、正しいのです。」 13 それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。

 

<魂の休日・魂の祭日>

 前回11章の「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(28節)を読みました。今日はすぐ後、安息日に関する箇所です。なぜ、私たちは日曜日に教会に集まり、礼拝するのでしょうか?キリスト教の義務?(礼拝を守る、という言い方もします。)教会の仕事の手伝い?(奉仕とも言います。礼拝へ行く良い動機づけにもなりますし、仕える喜び、成長の機会でもありますが、時に負担や悩みともなります。)それらも大切な理由ですが、何より日曜日はイエス様が「休ませてあげよう」と招いている、私たちにとっての安息日です。

 安息日とは、本来は土曜日、1週間の最後の日です。創世記で、神が世界を6日で創造し、7日目に休まれたことを記念し、私たちも働きの手を止めて、心と体を休ませ、神に創造されたものであること、その神に生かされていることを覚え魂を養う日です。安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。・・それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。(出エジプト記20章8&11節)

 また、出エジプト記で、エジプトの奴隷状態からの開放され、もはや奴隷ではなくなり、休むことが出来る存在となったこと、つまり神の救いをお祝いする意味もあります。申命記5章ではもう一度十戒を繰り返し、「あなたはかつてエジプトの 国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出 されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守る よう命じられたのである」(申命記5章15節)と教えています。ですから、安息日は私たちの魂の休日であり、同時に魂の祭日でもあるのです。

 私たち現代に生きる者にとっても、私たちが神に心をこめて創造されたこと、この神のうちにこそ私たちの真の安息があること、私たちが罪と死の奴隷状態からのキリストの十字架によって解放されたこと、やがての天での安息が用意されていることなどを、覚え、祝うのです。(キリスト教では日曜にキリストが復活を記念し、日曜に安息日の意味を込めて礼拝をします。)安息日とは、様々な価値観に振り回され、自分を見失い、道に迷うわたしたちが、もう一度自分が何者かを再確認する日、神の愛を、自分や人の尊さをしっかりと心に刻む日です。(ある音楽家は調律やチューニングに例えていました。)

大切なのは心

 ですから、安息日を軽んじ、祝わないことは、自分自身を見失うことにも繋がります。 実際イスラエル民族は、安息日を軽視し、神を軽んじ、他の神々を拝み、自分自身を大切に出来ず、堕落していった。そして、バビロニアによって国が滅ぼされました(バビロン捕囚)。

 そこで猛反省した人々は、異国の地で奴隷となりながらも、違う文化、違う状況の中で、安息日をはじめ律法を守ろうと、一生懸命考え行動しました。 そして、旧約聖書の様々な解釈が、ラビと呼ばれる律法の学者たちによって生まれたのです。それらは、神の恵みから迷い出ないための柵のようなもので、時代を経て、それがいつしか何重にも張り巡らされたのです。(例えば、安息日には労働をしてはいけないと、火を使わず、料理は事前に済ませておきます。歩いていい歩数は、1キロ程度とされています。運動の変化や、電気の火花を起こさないため、エレベーターは1階ごとに自動で停止します。)

 最初は真摯な心があったのです。しかし次第に、本来の安息日の意味以上に、伝わっている安息日の解釈を形式的に守り行えているか、前例を踏襲できているかどうかが、注目され、形骸化していきます。自分は正しくできているか、他の人は正しく守れているかと、コロナ禍での自粛警察ならぬ安息日警察のように目を光らせ、反する人がいれば、激しい批判と敵意が向けられました。クリスマス物語で、羊飼いが見下されていたのも、仕事がら安息日の規定が守れないことが原因でした。(足りなさを指摘し合い、互いに監視し合い、裁き合う安息日に、人の心に安息はあったのでしょうか?)

 歴史学者のペリカンは「伝統とは死んだ人間の生きた信仰であり、伝統主義とは生きた人間の死んだ信仰である。」と言いました。伝統と伝統主義は、伝統継承と前例踏襲は違うのです。律法も、律法の解釈も、そこに込められた、神様の心を、そこに表された先人の心を受け継がなければ、ただの伝統主義、前例踏襲になり、大切なものを見失ってしまうのです。宗教家は、安息日という本来良いものの意味を見失い、他の人々の足りなさを批判し見下す道具に、ただの「宗教」になってしまったのです。

 

 イエス様は、宗教家に、この箇所の並行箇所であるマルコ2〜3章で、「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。」(マルコ2:28)と応えました。安息日を設けてくださった、神様の心をもう一度考えなさいというのです。

 そして、神様の心を教えるために、旧約聖書ホセア所6章6節を引用し「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」と言われました。(ホセア6章6節はわたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」

 それでも、人々の心は固くなり、イエスを訴えようとした(並行箇所のマルコ3:2)。そこでイエスは会堂という決まりごとの中心で、安息日警察たちの前で、手の不自由な人を人々の真ん中に立たせます(マルコ3:3)。そして、安息日の意味を説き(マタイ12:10〜11)、敵意を向ける人達の前で「手を伸ばしなさい。」と、その人を癒やすのです。安息日とは神の憐れみが現される日なのですから。

 神様は、私たちから生贄としての捧げ物が欲しいのではなく、逆に私たちに神の憐れみを受け取ってほしいのです。私たちが何かを犠牲とするのではなく、キリストが十字架で犠牲となり救ってくださったのです。それが神様の心です。私たちに求める神ではなく、私たちに一方的に与えるのが聖書の神様です。神はそのあわれみの心をしっかりと受け止めてほしい。本当の安息を得て欲しい。そのうえで、私たちにも応答として、神と人を愛して欲しい、安息を、平安をもたらす人になってほしいと願っているのです。

あわれみの心に応える

 キリスト教の中心とは、この神の憐れみの心です。この心から全てが始まりますし、神の憐れみの心をもって考えていかないと、すぐに律法学者達のようにな形骸化した冷たい「宗教」になったり、恐怖で人を縛る「カルト」になってしまうのです。

 コロナ禍以降、ZOOMやYoutubeを用いての礼拝が始まりました。しかし、それらは礼拝ではないと言う考えもあるそうです。その言わんとしていることは大変よく分かります。

 けれど、コロナの状況や、健康、家族の事情などで、それでしか出来ない状況がある。そんな中で、みなさん、パソコンを頑張ったり、電話を用いたりして、神様の言葉を聞き、賛美をし、互いに祈り合っている。体調悪いのに身体を横たえてでも参加されたり(大変ならどうぞ安心して休みお体を労ってください)、病院の病室から礼拝をしたり、用事があるのに、礼拝前にアウトラインを取りに来て、後で熱心に読んで下さる。とても感動しました。そこには、神を愛する(神の愛に応える)心がありました。

 もちろん、仕事、健康、その他諸事情で、礼拝にどのような方法でも参加できないこともある(Youtbe配信をしていなくてすいません・・・HPやFBにメッセージは掲載しています。)、それならばご自分で、聖書を読んだり、祈ったり、賛美をしたりすればいいのです。安息日に大切なのは、神の創造と救いを喜び祝うことなのです。

 神様が何より求めているのは私たちの心です。「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(第一サムエル16:7)のです。そして神様はみなさんの心を大いに喜んでくださるのだと思います

 安息日だけではありません。1週間は10080分、日曜礼拝はたった80分です(おざく台は60分未満)。残りの10000分を私たちは生きていかなくてはならないのです。(そのために礼拝の80分が私には必要なのです。)あるユダヤ教のラビは神学をこう定義したそうです。「神学とは、朝起きた時、神が何を心配しているのだろうかと考え、神の心配事を、神と共に心にかけることだ。」

 

 安息日に、そして朝ごとに、神様のあなたへのあわれみの心をしっかりと受け止め、その心に喜びをもって応える一週間とすることが出来ますように。

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