11月6日のメッセージ

202211月6日  マタイの福音書〜神様の良い知らせ⑪〜

<聖書:マタイの福音書11章25〜30節>

25そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。 26 そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。 27 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。 28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。 30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

<昇天者記念の日と宗教改革の日>

 今日は召天者記念の意味も込めて礼拝し、すでに天に召されたお一人お一人の名前を挙げさせていただきました。教会の暦の中で、11月1日は「諸聖人の日」です。地上での戦いを終え、天での安息の教会に属する召天者を覚える日。(対して、私たちは地上の戦いの教会と呼ばれます。)その生涯を通してキリストに出会っていった姿、不自由さや苦しみの中でもキリストを手放さず歩み続けた姿などを思い起こし、私たちの歩みを新たにする日。また、彼らが天での安息の中にいることに、心安んじる日です。

 その前日、10月31日はハロウィンですが(諸聖人の日・死者の日(All Hallows)の前日を意味するハロウズ・イブ)、キリスト教では、1517年10月31日にマルチン・ルターが宗教改革を起こした、宗教改革記念日でもあります。(昨年は私たちの大切な方が洗礼を受けた素晴らしい日でもあります。)


<あなたの神観は?>

 私たちは神様をどのような方として見ているでしょうか?警察官のように私たちの過ちや罪を監視し取り締まる厳しい存在でしょうか?裁判官か閻魔大王のように、私たちの人生を細かく調べ上げ、有罪か無罪か、天国か地獄か、判決を下す存在でしょうか?立派で、天高く、私たちとはかけ離れた文字通り雲の上の存在でしょうか?そのような神観・神様への印象は、育ってきた環境や体験、学校や教会、社会から取り入れる情報などにも影響されるそうです。

 もし、神様に否定的なイメージや遠いイメージがあるとしたら、今日の箇所をぜひ大切にしていただきたいと思います。聖書の神様は「心優しく、へりくだっている」方であり、「疲れた人、重荷を負っている人」を優しく招き休ませる、恵みに満ちた方です。

 今日の箇所は28〜30節には、「くびき」「荷」などと、「休ませ」「安らぎ」、など一見すると対立するような言葉が同時に出てきます。くびきとは、畑を耕すために2頭の牛の首に着けたり、捕虜が首にはめられたりする道具の総称で、その主人によって行動を制限されたり、軌道修正されたりする道具です。それがどう、休息や安らぎにつながるのでしょうか?

 よく読んでみたいのですが、イエス様は、「わたしのくびき」「わたしの荷」と言っています。ということは、別のくびき、別の荷があるのです。そして、イエスが招いた、疲れた人、重荷を負っている人は、それらの「くびき」や「重荷」に苦しんでいた人たちなのです。

 当時のユダヤ教社会においては、神の戒めに従って生きることを、くびきを負う、とも表現しました。くびきとは、一見不自由に見えますが、「私は神の意志に従っている」「神のために労苦を耐え忍んでいる」という意味としても用いられ、ユダヤ人にとって大きな誇りでした。

 そして、神が与えた様々な戒めを守ることができた者、くびきをしっかりと負うことができた者、神を満足させ合格をもらった者こそが、選ばれ、救われ、天の国に入れられる、そう理解していたのです。そして、豊富に献金が出来る金持ちや、聖書に精通した知識人、戒めを守る宗教家、など、優れた人物達は、神に与えられたくびきをしっかりと負うことができていると誇っていたのです

 この決まりを完全に守れば、これだけの貢献や努力をすれば、この金額を捧げれば、あなたは救われ、

天国に入れる(そうとまでは言わなくても、安心できる)、と教えられ、逆に貧しい人、知識のない人、地位や功績のない人は、もっと戒めを守らなければ、もっと神に貢献しなければならない、もっとなにか良いものを神に捧げなければ、といつも恐れ、不安だったのです。

 

 「〜でなければ」「〜しなければ」と、神に愛されるために、恐れや不安から必死に行動する。まるで、どこかのカルト宗教か、キリスト教の汚点でもある免罪符・贖宥状のようですが、私たち人間はそのような過ちをいつも繰り返しているのです。「疲れた人、重荷を負っている人」とは、「〜でなければ」「〜しなければ」と恐れ、焦り、落胆し、実も心も疲れ果てた人々のことであり、そのような教えの中での神は、私たちを裁く裁判官や警察官、様々な要求を突きつける恐ろしい、遠い存在です。

*川崎の病院の話

<イエス様の神観>

 聖書は、そのような「宗教」を指して「奴隷のくびき」(ガラテヤ5章1節、使徒15章11節)「重くて負いきれない荷」(マタイ23章4節、ルカ11章46節)と呼びました。「しなければならない」「でなくてはならない」という「宗教」のくびきは私達を縛る「奴隷のくびき」なのであり、私達が決して「負いきれない荷物」なのです。

(ユダヤ人が宗教戒律を基準とした代わりに、私たちは、成績、学歴、収入、能力、容姿などにより、人間の価値まで、測られ、選ばれる社会にいますから、「〜でなければ」「〜しなければ」と恐れによって歩んでいるのならば、私自身が不自由な奴隷のくびきと決して無関係ではないように思えます。)

 そのような状況に対して、イエス様は「わたしのくびき」、「わたしの荷」と言ったのです。 そして、イエス様はその前の部分(25〜27節)で、「賢い者や知恵のある者」「幼子たち」を対比し、神様は、「幼子たち」、当時の文化では知恵も功績もない者たちこそ、逆に神が尊び、ご自身を表して下さるのだというのです。私たち側の理由や条件や犠牲などいらない、神からの一方的な愛や恩寵、これを聖書では「めぐみ」と呼びます。イエス様の示したのは、恵みの神様です。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」(エペソ2:8)

 今から約500年前、1517年の10月31日に、マルチン・ルターがヴィッテンヴェルク城の礼拝堂の扉に打ち付けた「95か条の提題」は、まさにこのめぐみこそが、キリスト教の本質だというものでした。ルター自身、厳しい父、ムチで打つ教師、当時の教会の影響で、恐ろしく、監視し、要求する神観を持ち、「〜しなければ」「〜でなければ」と苦しんでいました。

 けれど、聖書を通して、人間の立派さや、悟りや、犠牲(免罪符や献金など)によって、私たち側の理由によって救われるのではなく、ただ神のめぐみにより、神の側の理由により、私たちが愛され、赦され、救われ、天国に入れられる、というイエス様の福音(良い知らせ)に気付いたのです。

 イエス様は、「わたしから学びなさい」「わたしのくびきを負いなさい、と言いました。それは、わたしから勉強しなさい、わたしの命令を聞きなさい、ではなく、めぐみを知りなさい、めぐみの神様に出会いなさい、という招きです。私たち一人ひとりにも、恵みを知ることが、私たち自身の宗教改革が必要なのです。

 このような背景をふまえ、イエス様のくびきとは、イエス様とのくびき、と伝統的に理解されています。イエスが私達にくびきをつけ、働かせ利用するのではない、心優しくへりくだったイエス様が、私達と同じくびきをつけ、一緒に歩んでくれる。迷うときは導き、力ないときは引き、倒れるときは支えてくれる、共に汗を流し、隣で励まし、神が一人ひとりに備えた道を最後の最後まで伴ってくださる。

 

 失敗や過ちや不十分さもあるでしょう。けれど、選ばれないと、捨てられると、恐れなくて良いのです。神が私達の言動をチェックし救いへと選ぶのではない。神が十字架にまでかかり、先に救いを差し出し、私達に選ばせてくださるのです。そして、「わたしはけっしてあなたを見離さず、あなたを見捨てない。」(ヘブル13:5)と誓って下さる。


「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。・・・愛には恐れがありません。全愛は恐れを締め出します。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」(第一ヨハネ4:16〜19)

 私達に、恐れはいらないのです。私たちの神は、恵みの神、愛の神なのであり、私達すべてはすでに愛され選ばれている。ですから、私たちの言動の全ては、先に愛して下さる神、十字架にかかってくださったイエス様への応答なのです。

 

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