毎日の聖書10月31日〜11月6日

おざく台教会毎日の聖書 10月31日~11月6日

1日1章聖書を読んでみてください。お手元に旧約聖書がない方は、その日の冒頭に載せた一文だけで大丈夫です。

10月31日(月)詩篇22

11節「わが神 わが神 どうして私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。」

 人類の歴史の中で多くの人がこう叫んできたことでしょう。しかし、本当の意味で神に見捨てられた人は一人もいません。ただ一人、十字架で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」(「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」)と叫ばれたイエス・キリストをのぞいては。ある学者は述べました、「キリストへのNOは、世界へのYESである。」私達は誰一人紙に見捨てられていないのです。

「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)

11月1日(火)詩篇23

1節「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。」

 人は欠乏を恐れます。もっともっとと求め、いつも不安であり、分け与えることをためらい、失いそうになると攻撃的に豹変します。私達は弱く乏しいのです。だからこそ神を必要とするのです。あなたを導く羊飼いである神を思い巡らしながら、この詩篇をゆっくり祈ってみてください。

「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。」(黙示録22:17)

11日(水)詩篇24

1節「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。」

 全ては神のもの、そう言いながら、人間は、土地を、権利を、富を、奪い合います。神のものは、握りしめるのでなく、そっと手に置くだけ、そう聞いたことがあります。握りしめれば壊してしまいますが、手にのせるだけなら、誰かに差し出すことも出来るのです。

「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。・・・与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。」(ルカ6:36~38)

11月3日(木)詩篇25

1節「主よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます。」

 「あなたがいつも心を結び付け、慕い求めるものこそが、あなたが本当に礼拝しているものだ」、そう宗教改革者ルターは語りました。私達は目を、耳を、心を、魂を、何に向けているでしょうか?「You are what you eat」(何を食べているからあなたを決める)という表現を引用し、「You are what you worship」(あなたはあなたが礼拝するものに似る)と言った牧師がいました。私達はキリストを礼拝し、キリストに似たいのです。

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」 (第二コリント3:18)

11月4日(金)詩篇26

1節「私を弁護してください。主よ。私が誠実に歩み、よろめくことなく、主に信頼したことを。」  

 生きていれば不当な扱いを受ける時もあります。人の悪意に翻弄され、ただ泣き寝入りする時もあるでしょう。そんな時でも、どうか神と人の前にへり下り、誠実を貫いてください。その誠実さは決して無駄にはなりません。地においては神があなたを弁護してくださり、天においては報いが用意されているのですから。

「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:9~10)

11月5日(土)詩篇27

4節「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」

 キリスト教は文化や教養として大変魅力的です。教会の人の存在は喜びであり励ましです。しかし、いつの間にか大切な神ご自身が忘れ去られてはいませんか?今日ゆっくり時間をとって、こどものような純粋な心で、何も飾らない裸のままのあなたで、神さまとの会話を楽しんでみてください。

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)

11月6日(日)詩篇28

7節「主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。」

 困難な時、わたしたちは状況の変化を求めます。欠乏には充足を。病には癒しを。逆風には順風を。もちろんそれらを祈り求めてよいのです。しかし、ある牧師から聞いたことがあります。「祝福ではなく、祝福の源である方を求めよ。」主と共にあるなら、嵐の中でも、そこは神の国になるのです。今日、神ご自身を呼び求めてみてください。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ5:14~16)

Top